怒 り
「俺たちは美咲の味方だ。」
義理の両親が私を支えてくれることが、どれほど心強かったか。
その言葉が、私の心の大きな支えとなった。
たとえ何もしてくれなくても、ただ見守って応援してくれるだけでも十分だった。
その日の夕方、私は浩介から夫の件で会いたいと近くのカフェに呼び出された。
「俊太郎のことなんだけど…」
「うん、何かあった?」
「実はこの前、市の会合で俊太郎に偶然会ったんだ。」
浩介はこの地域で不動産を経営している社長だった。
「もちろん美咲に話を聞いているなんてことは言ってないよ。」
「うん…」
「それで、女のことを噂で聞いたぞって言ってみたんだ。」
「え?」
「ある人から噂を聞いたって。」
「そしたら?」
「俊太郎、俺が女のことを羨ましくて言ってると勘違いして、自慢げに女の話をしてきたよ。」
浩介が私の前に一枚の紙を置いた。
それは夫から聞いたことをメモしたものだった。
「沙織は俺が望むことを何でもしてくれる(夜のこと)。
沙織は一生俺に尽くすと言っている。」
「沙織がいてくれれば、仕事も家庭もどうなっても構わない。」
「沙織のためなら、お金を使うのも惜しまない。」
「沙織は俺に妻子を捨てて一緒になれと言っている。」
「沙織は美咲を痛めつければ、逃げ出すから大丈夫だと言っている。」
「子供たちは父親がいなくても育つから大丈夫とも言っている。」
「これってひどい。子供はほっておいても育つって、どういうこと?他人の女に子供たちのことをこんな風に言われなくちゃいけないの?」
「そうだよな、俺もそう思う。」
「浩介、この女はバツイチで息子がいるんだよね?」
「そう、沙織には息子が一人いる。」
彼女は出産や子育ての大切さを知りながら、こう言っているのか。
体の奥から湧き上がる怒りを感じた。
「本当にひどい。俊太郎がこの話を平然とするのを見て、吐き気がしたよ。しかも笑顔で。」
「美咲、この前も言ったが、沙織について調べるために色んな人から話を聞いたんだ。」
「うん。」
「沙織が入り浸っているクラブのホステス。俊太郎の仲間にも聞いたが、良い評判はなかった。」
「ただ、保険に入る男や金づるを探しているということは分かった。」
「でも、沙織はそれだけの女じゃない。」
「それってどういうこと?」
「言いづらいが、彼女は美咲から全てを奪うつもりだ。」
「全て?」
「ああ。」
なぜ私や子供たちがこんな目に合わなければならないのか。
大切な子供たちを巻き込むなんて、絶対に許せない。
今まで恐れていた私だったが、今は心の底から湧き上がる怒りに震えている。
「今の俊太郎はどうかしている。このままでは家庭も仕事も取り返しがつかないことになると思う。」
もう怯えて逃げているわけにはいかないと、その時私は知った。
選 択(1)
冷たい風が吹き始め、北海道にも冬が近づいてきた。すぐにすべてが凍りつく季節が訪れるだろう。夫の変化に気づいてから半年が経過した。この期間に、彼の不倫の存在は私の想像を超え、確固たる現実となった。
毎晩遅くまで外出し、休日は家にいない夫。会話もなく、義父からの励ましの電話はあったが、進展は見られない。義母は優しく慰めてくれるが、こちらも変化はない。
その間、夫と女性の目撃情報はさまざまな人から耳に入ってきた。夫の不倫が原因で、取引先からの反応が鈍ることもあり、下請けの会社では笑い話のように広まっている。
特に心配なのは、子供たちの耳にこの噂が入るのも時間の問題だということ。この小さな町では噂はすぐに広まり、誰がどこでつながっているか分からない。子供たちにだけはこのことを知られてはならない。特に、長男と長女は受験生だ。私は彼らを守らなければならない。
これまでは、義父母の言葉に従って夫の不倫を見て見ぬふりをして耐えてきた。しかし、夫と沙織は人目をはばからず、街で恋人のように振る舞っている。このままでは限界だ。夫の不倫が仕事に影響を与え、子供たちを傷つけることを止めなければならない。
そこで、私は一つの決断をした。それは、夫と向き合い、不倫について話し合うことだ。責めるのではなく、あくまで冷静に。
心の中に夫を非難する気持ちはもうない。過去のことは気にせず、私の望みは子供たちのために平穏な家庭を取り戻すことだけだ。
しかし、話を切り出すには勇気がいる。実際に夫を前にすると、躊躇してしまう自分がいる。「こんなことではダメだ」と思い、手遅れになる前に行動しなければならない。
今、子供たちを守れるのは私だけだ。そして、その日は予期せず、何の前触れもなくやってきた。私たち家族の運命の日が。
選 択(2)
その日は何の前触れもなく、突然訪れた。私たち家族の運命を変える日が。空気はまるで真冬のように凍りついていた。前夜、夫を待たずに眠ってしまった私が目を覚ますと、隣に夫の姿がなかった。
最近、夫の帰りが遅くなっていたが、無断で外泊することは初めてだった。驚いて探すと、リビングのソファでダウンジャケットを着たまま眠っている夫を見つけた。
「どうしたの?こんなところで寝てるの?」と声をかけると、夫は薄目を開けて、「お前の隣ではもう寝られない…」と言った。「え?どういうこと?」と聞くと、また目を閉じた。誰かにそう言われているのかもしれない。子供たちの前では平静を装ってきたが、寝室が別だと異変に気づかれるだろう。
子供たちも、毎晩リビングで寝る父親を見て、何も思わないはずがない。長男と長女は受験を控えているのに、もう無理だ。これ以上耐えるのは無理だ。私は決意した。
話し合うしかない。夫の不倫などどうでもいい。責めるよりも、元の関係に戻りたい気持ちの方が大きかった。夫婦としてやり直したい、子供たちのために。
夫が目覚めるのを待ち、ソファの前に正座した。一世一代の覚悟を持って。
選 択(3)
「ねえ、起きてる?少し話があるんだけど、今いいかな?」 ソファに座って新聞を読んでいる夫にそう声をかけた。いつもなら怒鳴られると思っていたが、今日は不思議と穏やかに頷き、新聞を置いて床に静かに座った。正座で向き合う二人。
「言いにくいことなんだけど、怒らないで聞いてほしいの。」涙が頬を伝った。
「分かった。」
「あなたが気になる女性がいるよね?」
「……」
「所長としての責任が増えて、ストレスも大きいのが分かるから、お酒を飲むのはいいと思う。でも、女性問題だけは…。」
「そうだな…」
「噂が広がって、仕事にも影響が出るし、子供たちが知ったらどれだけ傷つくか…。」
「うん…」
「だから、もうやめてほしい。お願い。」
「分かった。」
「私も直すところがあるから、言ってね。頑張るから。」
「うん…」
「こんな話は嫌だよね。でも、もう黙っていられないの。」頭を下げると、夫は静かに言った。
「分かったよ。本当にごめん。」
彼の表情は本気だった。私の苦しみは終わった。
「ありがとう、分かってくれて。」涙が溢れた。
「私も子供たちも、あなたが必要なの。」
「わかってるよ。本当にごめん。」
これで私たちの悪夢の日々は終わる。戻れるんだ。子供達を傷つけないで済む。夫が不倫していた事実より、戻ってくれたことの方が私にとっては大事なのだ。
その日は夫の高校の同窓会だった。夫はいつも通り食事を済ますと準備しておいたスーツ着替え私が差し出すハンカチを受け取り内ポケットにしまった。
「美咲、ありがとな」優しい声に優しい眼差し。送り出す玄関先夫はそう言って靴ベラを私に渡した。今日は二次会まで出ることになってるから帰りは遅くなるよ。だからお前は寝てていいからな」
「わかった。いってらっしゃい。気をつけてね」
「うん、行ってくるよ」
「俊太郎さん!」
「なんだ?」
「私も子供たちもあなたを愛しているからね」
「…俺だって同じさ。大切に思ってる。行ってきます」
玄関ドアを開けた夫は私の方を振り返った。
「美咲、今までほんとにごめんな。あの女とはちゃんと別れるから」
穏やかな顔だった。私は小さく笑顔で頷いた。今まで以上にこの家庭を夫を子供達を大事にしよう。夫が開けた玄関のドア越しにはこの時期には珍しく綺麗な青空が広がっている。夫の車が走り去るのを私は穏やかな気持ちで見送った。こんなに穏やかな気持ちになれたことが嬉しかった。
これで私の苦しみは全て終わった。子供達を傷付けずに済んだ。この日が私達夫婦の再出発だ。この時の私は心からそう思ったのだ。しかしこれが穏やかな夫と交わした夫婦としての最後の会話となった。
玄関を出て行く我が夫のあの後ろ姿を私は一生忘れない。私は今でもふと思う時がある。あのときあの選択をしていなければ義父母の言うとおりなにがあっても目をつぶり黙っていれば私達家族の今の現実は違っていたのだろうか。この日を境に正気の夫は私の前から完全に姿を消した。
無 断 外 泊(1)
「同窓会で今夜は遅くなる」と夫に言われた私はその夜は早めにベッドに入った。 夫と仲直りできた安堵感で私は久しぶりに深い眠りに落ちた。 萎縮していた体中の神経がその末端まで解き放たれるような気がした。
翌朝4時まだ日が昇らない薄暗がりで目覚めた私はベッドの隣に夫がいないことに気がついた。 同窓会でお酒が入った夫の身に何かあったのではないかととっさに事故を連想した。
私は慌てて夫の携帯を鳴らす。
「はい、もしもし…」 意外にも夫はすぐに出た。
「俊太郎さん、どうしたの?なにかあった?事故?ケガしてないよね?今どこにいるの?」
「……今、実家」 「実家?なにかあったの?」
「俺、全然寝てないからもう寝るから」 めんどくさそうにそう言うと一方的に電話は切れた。 なぜ夫は実家に居るのだろう。 なぜうちに帰ってこないのだろう。
いったいなにがあったのだろう。 私には事情が全く呑み込めない。 話を聞きたくてもう一度夫の携帯に電話したが夫は出なかった。
その日設計事務所に出社するとそこにはいつも通り夫がいた。 「夕べどうして帰って来なかったの?なにがあったの?」「ここは会社だ。公私混同するな」 夫は厳しい口調でそう言うと私を睨み付けた。
その顔は昨日話し合った夫とはまるで別人。 頭の中は聞きたいことがいっぱい。 昨日話し合って分かってくれたんじゃなかったの? 遅くなるけど帰ってくると言ったんじゃなかったの? 私たち仲直り出来たんだよね?
しかし社員のいる事務所では聞きたくてもなにも聞けない。 夫の側には常に従業員がいるのだ。 昼休み私は設計事務所を抜け出し夫の実家に電話をした。 夕べの事情を聞くために。 電話に出たのは義父だった。
無断外泊(2)
「お義父様ですか?昨日、俊太郎さんと女性の件について話したんです。俊太郎さんは理解してくれて、女性とはきっぱり別れると約束してくれました。私たちも仲直りできたと思っていたのですが、昨晩、俊太郎さんが帰ってこなかったと聞いて…」
「俊太郎は昨晩、確かにこちらにいましたから心配しないでくれ。今夜もここにいると言ったら、責任を持って預かる。彼の気持ちが落ち着くまで、しっかりと面倒をみるから大丈夫だ。ちゃんと家に帰れるように、女性とは別れるように説得するから、約束するよ。」
力強い義父の声に安心感を覚えた。
「昨日、俊太郎さんは理解してくれたのに、どうして急に帰らなくなったのでしょうか?」
しばらく黙っていた義父が言葉を続けた。「……女性のせいだ。同窓会の帰りに俊太郎は女性と会って、お前と話したことを話した。その女性が、奥さんにばれたならもう家には帰る必要がないと言ったらしい。そして、早く離婚して私と一緒になれと言われたんだ。」
「責任を取れと言っても、彼女は既婚者と知っていて不倫していたのですね。それはひどい!」
「正直言って、お前がいなければ事務所は成り立たない。俊太郎もちゃんとお前のところに帰すから、事務所を頼む。彼の不倫が噂になって、仕事が減っているだろう?このままでは事務所が潰れる。子供たちの進学も影響を受ける。だから、事務所をなんとか守ってくれ。俊太郎はその間しっかりとこちらで面倒を見て話をする。約束するから、今は耐えてくれ。」
夫の不倫が広まって仕事が減少しているのは事実だった。小さな町では、こういう噂はすぐに広まる。事務所を守ることは、家族を守ることであり、子供たちの未来を守ることでもある。だから、私は事務所を守らなければならない。「わかりました。お義父様、私、子供たちのために事務所を守ります。ですので、もし俊太郎さんが今夜もこちらに行くようでしたら、どうかよろしくお願いします。」
「よし!良い返事だ!事務所を頼むぞ。」義父の言葉が私に力を与えてくれた。私にとって大切だと言ってくれたその言葉が、私の心を強くした。何があっても設計事務所と子供たちを守る。そして、夫が正気に戻るまで。
しかし、この時点で義父が裏切ることになるとは、私はまだ知らなかった。
言 い 訳
協力すると言ってくれた義父の言葉が、私の心を支えていた。大切に思ってくれていると伝えてくれたその言葉が、私に力を与えたのだ。義父の助力に希望を託し、私はこれからも自分の仕事場や家庭、そして子どもたちを守っていく決意を新たにした。かつての義母がそうしたように。
その夜もまた、夫は帰ってこなかった。たぶん実家にいるのだろう。「俊太郎はちゃんと私たちで面倒を見るから、心配しないで」と義父の言葉が頭をよぎる。
昨日、夫は「もうあの女性とは終わりにする。今まで本当に申し訳なかった」と言ってくれたのだから、それを信じることにした。今夜は義父に夫を任せ、私は静かに過ごすことが一番良いだろう。私は夫と義父を信じるしかなかった。
翌朝、考え込んだ。夫が二晩も帰ってこなかったことを、子どもたちにどう説明すればいいだろうか。特に上の二人はもう年齢的に適当な言い訳は通じない。
夫は元々、子どもに対してあまり関心を示さない父親だった。休日はいつも趣味に没頭し、家族旅行もこの17年間で数えるほどしか行ったことがない。
子どもたちは父親の変化に気づいていないが、まさか浮気のことなど夢にも思っていないだろう。
リビングに降りてきた子どもたちは、夫がいないことを特に気にしていないようだった。「おはよう、急いでね!」と元気な声で言いながらも、私は心の中でどう説明すればいいのか考えを巡らせていた。
「あれ、お父さんは?」最初に気づいたのは、小学6年生の健二だった。
彼の真っ直ぐな目に、私は痛みを感じながらも「おばあちゃんが体調を崩して、しばらくそちらに泊まることになったの」と説明した。
この嘘は子どもたちを守るためのものだ。「そうなんだ、そういえばこの前おばあちゃんの顔色悪かったもんね」と、美穂がトーストをかじりながら言った。
意外にもあっさりとした反応だった。他の二人も同じように納得してくれた。義母が以前病気をしたことがあったので、それを思い出して結びつけたのだろう。夫の実家は車で2、3分の距離だから、泊まることも不自然ではない。
子どもたちは私の説明をすんなり受け入れてくれた。義母が以前、病気で倒れたことがあったため、その記憶が彼らにとって信憑性を持たせたのだろう。こうして、私の嘘が夫の不在の理由として成立した。
子どもたちがいつも通り元気に学校へ向かう姿を見送りながら、私は安堵とともに、言い知れぬ罪悪感に襲われた。
本当は、子どもたちにも家族に起こった事実を知る権利がある。しかし、彼らの心を守るために嘘をつくしかなかった。
一生この秘密を隠し通すことはできないだろうが、真実を知る日はできる限り遅らせたい。その時が来るまで、私は全力で子どもたちを守ると心に誓った。
何度も心の中で「ごめんね」と謝りながら。ごめんね、嘘をついてごめんね。私は何度も心の中で子どもたちに謝り続けた。
愛 情
夫婦の話し合いの後、突然夫が家を出て行ってから二週間が経った。 この間、夫は一度も帰ってこなかった。 子供たちは「お父さんはおばあちゃんの具合が悪いから実家にいる」という私の苦しい言い訳を心から信じているのだろうか。
もしかしたら、疑問を抱きつつも信じたふりをしているだけかもしれない。 だが、そのことを子供たちに確認する勇気が私にはなかった。
現在は、明るく振る舞い、子供たちにできるだけ平穏な生活を送らせるように努めるしかない。
「ねえ、お母さん、お父さん元気?」 朝、長女の美穂が玄関で振り返りながら言った。 両親が同じ事務所で働いているから、今は会話もあると思っているのだろう。
「うん、元気だよ。みんなのことも気にしてるよ」と私は答えた。
美穂の隣で、弟の健二もその会話を聞いている。 「そっかあ」と美穂は無邪気に笑った。 そして、2人に「いってらっしゃい、気をつけてね」と声をかけた。 自転車に乗る美穂が「お母さん、お父さんによろしくー!」と手を振った。
この2週間、設計事務所で夫に子供たちの様子を聞かれたことは一度もない。 17年も一緒に暮らした子供たちが、突然の不在をどう感じているのか、夫は気にしていないのだろうか。
子供たちが動揺していないか、心配はしていないのか。 夫はどう思っているのだろう。 もちろん、子供たちには一切連絡がない。
夫の気持ちが理解できなかったが、もともと子供に無関心な夫にとっては自然なことなのかもしれない。
子供たちが小学生だった頃、市内の団地に住んでいた。 そこは家族向けの住宅で、たくさんの小さな子供たちが遊んでいた。
夕方には、団地の裏の駐車場が遊び場となり、子供たちやその母親たちで賑わっていた。 「うち、ゴールデンウイークにキャンプに行くの」「うちは東京に行く」「うちはディズニーランドに!」と楽しそうな会話が飛び交う中、私は疎外感を感じていた。
なぜなら、我が家には家族旅行が存在しなかったからだ。 夫は旅行にまったく興味がなかった。 休日はいつも、夫が義父とゴルフに出かけ、私と子供たちだけが取り残されていた。
夫と旅行について何度か話し合ったが、結局、夫は考えを変えなかった。 「俺も親父にどこかに連れて行ってもらったことなんてない」と言い放つ夫に、私はあきらめた。
その後、夫に頼らず、友達と子供たちを遊園地や公園に連れて行くことが増えた。 それによって、夫との喧嘩も減った。
健二は小学生からサッカーを始め、美穂は幼稚園からピアノを習っていたが、恥ずかしながら夫が彼らの行事に顔を出したことはなかった。 そんな夫が連休にゴルフに行く理由を私は「お父さんは忙しいから」と子供たちに言っていた。
10年以上前のことを思い出すと、当時は夫婦仲も良かったが、夫は子供に愛情を持てなかったのかもしれない。 私は夫と子供たちの関係をうまく築けなかったのだろう。
もしかしたら、私は良い母親や妻ではなかったのかもしれない。
話 合 い(1)
彼が実家に滞在し始めてから、すでに二週間が過ぎた。その間、私は約束通り、毎日設計事務所で働き続けていた。経理や雑用、事務作業、掃除や買い出しなど、すべて私の役目だった。小さな設計事務所では、妻がこうした業務をこなすのは珍しくない。
毎日、職場で彼と顔を合わせていたが、家を出た理由や彼の不倫について、何も話すことはなかった。私は話しかけたい気持ちがあったが、常に社員がいるのでそれは難しかった。私たちの会話は、仕事に関する最小限のやりとりに限られていた。
家に戻ると、子供たちが帰る前に彼に電話をかけようとしたが、いつも応答はなかった。その日、私はタイミングを見計らい、彼がいる時間に義父の家に電話をかけた。電話に出たのは義父だった。
「お義父さん、あれから二週間が経ちました。彼と話がしたいんです。子供たちのこともありますし、少し話してもらえませんか?」
義父はため息をつきながら、「彼もまだ心の整理がついていない。少し時間を置いた方がいいんじゃないか。無理に刺激しても良い結果にはならん。もう少しそっとしておけ」と言った。
「でも、もう二週間も家に帰っていないんですよ。子供たちも不審に思い始めています。どうしても話し合いたいんです。」
「わかっているが、別れるにしても、相手が納得しないと話が進まないんだ。焦らずに待て。俺もちゃんと彼と話すから、心配しなくていい。」
私は電話を切った。義父の言う通り、別れ話には時間がかかるのかもしれない。彼が落ち着くまで待つしかないのだろう。あの日、彼が「すまなかった、別れる」と言ってくれた言葉を信じることにした。
そんな時、彼が突然、日曜の午後に家に現れた。子供たちは全員外出しており、私は夕飯の準備を始めていた。
「お前に話がある」と言い、彼は薄笑いを浮かべながらキッチンカウンターに一枚の紙を置いた。それは、彼のサインが既に書かれた離婚届だった。
「どういうこと?なぜ離婚なの?あの日、女とは別れるって言ってくれたじゃない!」
「そんなこと、もう忘れた。」
「私たちはずっと上手くいっていたはず。何が悪かったのか教えてくれ。」
「俺は他にもたくさんいい女がいることに気づいたんだ。」
「それは不倫相手のこと?彼女の話をしているの?」
「そうだ。彼女は俺を常に一番にしてくれる。お前にはそれができない。」
「私は家のこと、子供のこと、事務所のこと、全部やってきた。私の何が悪かったの?」
彼に食い下がったが、彼の答えは簡単だった。
「お前は子供が生まれてから、俺を一番にしなくなった。それが離婚の理由だ。」
「子供が生まれてから?それは当然じゃない。大人のあなたより、まだ小さい子供たちに手がかかるのは普通のことよ。どこの家庭でもそうでしょ。」
「俺は他の家庭のことなんてどうでもいいんだ。俺を二番目にされたのが嫌なんだ。あの女はいつも俺を一番にしてくれる。それが理由だ。」
私は彼の言葉に愕然とした。子供を優先したことが離婚の原因だと言われても、納得できるわけがない。
話 合 い(2)
「俺はいつだって、絶対に俺を一番にしてくれないと嫌なんだ!子供よりも俺を優先してほしいんだよ!」
彼の言葉に、私は衝撃を受けた。本当に、それが理由で離婚するの?それが家族を壊す原因になるの?私と子供たちを捨てる理由が、それだというの?
信じられなかった。彼がそんな幼稚な考えを本気で口にしているなんて、結婚して20年、彼がそんな不満を一度も打ち明けたことはなかった。私は混乱した。
「とにかく、私は離婚なんてしない。絶対に拒否する。あなたが戻ってくるまで、家と仕事を守りながら待つから。」
その言葉は、義父母に教えられたものそのままだった。
「お前、知ってるか?離婚なんて、すぐできるんだよ。300万も払えばすぐに成立するんだからな。お前がどれだけ反対しても、無駄だ。」
「誰がそんなこと言ったの?」
「あいつだよ。あいつは離婚の経験者だから、いろいろ知ってるんだ。」
「あいつって、不倫相手のこと?」
「とにかく、また来るから、その時までにサインしとけよ。お前が嫌がったって、どうせ離婚になるんだから。」
「離婚なんて、絶対にしない!」
私は涙を浮かべながら、カウンターの上の離婚届を破り捨て、出て行く彼の背中に投げつけた。
玄関の向こうから、彼の車が立ち去る音が聞こえた。私はその場に崩れ落ちた。彼がこんな風に思っていたなんて、信じたくなかった。
「絶対に離婚なんてしない…」
私は、床に散らばった離婚届の破片を見つめ、涙が止まらなかった。どれくらいそうしていたのだろう。気がつけば外はもう暗くなっていた。
子供たちが、もうすぐ帰ってくる。お腹を空かせて帰ってくる子供たちのために、夕食を作らなければ。この出来事を子供たちに悟られないよう、笑顔で迎えなければ。
それが正しいのかどうか、私にもわからない。ただ一つ、はっきりしていることがあった。私は、子供たちの心を守りたい。ただそれだけだった。
私はリビングのドアノブを掴んで立ち上がり、キッチンへ向かった。大切な子供たちが帰ってくるから。