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浮気旦那と離婚に至るまでの道のり(6)

不倫
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宝 箱

3週間前に、夫のオフィスへ行くのをやめてから、時間がゆっくりと流れていった。

ある夜、夕食後に電話が鳴った。かけてきたのは、以前退職した田中だった。

「田中さん、久しぶりです!最近どうしてました?元気にしてましたか?」私は久々に聞く声に、自然と親しげに声をかけた。

「お元気そうで何よりです。僕も仕事が決まりました、小さな建設会社ですけど。」田中はそう答えた。

その声に、私は20年も一緒に働いてきた仲間のことを思い出し、懐かしさが胸に広がった。

「ところで、昨日会社の鈴木さんから電話がありました。会いたいと言われて、食事に誘われたんですよ。」

鈴木は、私の夫のオフィスで古くから働く社員だった。電話の内容が気になり、「それで、何の話だったんですか?」と問いかけた。

「みんなが、あなたに戻ってきてほしいって言ってました。会社にいてもらわないと、納得がいかないって。」彼の言葉に私は驚きを隠せなかった。

この1年半、涙を流すことが多かった。だが今、この話を聞いて初めて、嬉し涙が溢れた。

「みんなが私のために?」私は信じられなかったが、胸が温かくなった。

オフィスで働いてきた仲間たちとの思い出が次々と思い浮かんだ。彼らは私にとって大切な存在だったのだ。

私が支えてきたこのオフィスは、夫の父が始めたもので、夫がそれを引き継いでいた。私はそのサポートをしていただけだが、私なりにこの場所を愛していた。社員たちのことも大切に思っていた。

私が彼らを家族のように思っていた気持ちは、きちんと伝わっていたのだと、今になって気づいた。

彼らを愛し、全力で働いてきたことが、ちゃんと伝わっていたんだなと思うと、涙が止まらなかった。

夫やその家族への未練はもうない。しかし、仲間たちとの仕事や思い出だけは、心に残っていた。

でも、もういい。私の気持ちはちゃんと彼らに届いていたのだから。20年の間、私がここで一生懸命やってきたことは、無駄じゃなかったのだから。

「田中さん、みんなの気持ちは嬉しいです。でも、私が戻ることはできません。」そう伝えながらも、心の中では感謝の気持ちでいっぱいだった。

この電話をもらったことで、やっと心の整理がついた。過去を振り返り、オフィスでの役目を終えたことに満足していた。

そして、最後に私は静かに電話を切った。この夜の出来事を、心の中にそっとしまい込んだ。

子どもの進路調査

市議会議員の事務所で、夫と義父、そして沙織の親族から厳しい問い詰めを受けたあの日、私は自分がこれ以上、浅井設計事務所に行けなくなっ

あの日の出来事で、義父にあっさりと見捨てられたことが、今でも心に重くのしかかっている。彼の冷酷な言葉が忘れられず、私はあの時、信じた自分が愚かだったと、後悔の念でいっぱいだった。彼はこれまでにも何度も人を傷つけ、女遊びを繰り返してきたのに、なぜ私は彼を信じたのだろう。

私の中にあった生きる気力はその出来事で大きく削がれ、まるで空っぽになってしまったように感じていた。

そんな中、北海道の短い夏が近づき、子どもたちは進路調査の紙を学校から持ち帰ってきた。

「お母さん、これ、月末までだから」

長男の悠人は、どこか申し訳なさそうに私に紙を差し出してきた。もちろん、彼に非は何もない。彼は受験生であり、それは当然のことだ。しかし、親として何もできない自分を情けなく思い、心が痛んだ。

「わかったわ。帰ったら一緒に話し合おうね」と、私は微笑みながら彼に返事をした。

問題は長男と長女の進学費用だった。受験まではあと半年しかなく、家族の預金はすべて夫が家を出るときに持ち出していた。さらに、その全額を夫は出て行った翌日に引き出しており、その後の行方は分からない。

おそらく別の口座に移したのだろうが、私はどの銀行にその口座があるのかも知らなかった。20年間働いた分の私の給料もすべてその預金に含まれていたのに。

私はそのお金が家族のものであり、夫だけのものではないことを証明するための準備をしなければならなかった。しかし、夫は進学費用を出してくれるのだろうか? それが心配で、夜も眠れない日々が続いた。

長女の美穂は市内の公立高校へ進む予定なので、費用はある程度予測がつくが、問題は悠人だ。彼は東京の国立大学を志望しており、その費用はかなりのものだ。

元々、義父と夫は悠人が将来、事務所を継ぐことを期待していた。そのため、進学費用を出さないわけがないと思いたいが、夫のこれまでの行動を考えると、安心できなかった。

家族の預金を取り戻し、子どもたちの未来を守るために、私は何としてでも夫から進学費用を引き出す必要がある。しかし、彼が協力してくれるかどうかは全く不明だった。

センター試験まであと半年、夫が進学を諦めるように言い出すことを想像すると、私は何も手につかず、不安に押しつぶされそうになる。

それでも、私は悠人を希望する大学に進学させる決意を固めた。夫の裏切りが理由で、子どもたちの未来を諦めさせるわけにはいかない。20年かけて積み上げたお金は、彼らのために使われるべきだ。

進学費用を夫に出させるための手立てを考え抜いた結果、私はついに一つの策を思いついたのだった。

進 学 費 用

高校と大学のダブル受験まで、残り半年を切った。

悠人と美穂は、父親が全く帰宅しない状況でも、進学できると信じて、黙々と受験勉強に励んでいる。

夫が家にいたころ、悠人はクラスメイトのほとんどがそうしていたように、塾に通っていた。しかし、夫が出て行ってからは自ら塾を辞めた。家にお金がないと理解しているからだ。それ以降、悠人は自分で時間を管理し、まるで人が変わったように、ほとんどの時間を自室で勉強に費やしている。

「みんな塾に行っているのに、俺だけ…」などと、悠人は一度も不満を口にしなかった。

そんな悠人に、父親の不倫が原因で進学を諦めろなんて、私には絶対に言えない。

夫にどうしても、悠人の進学費用を出させなければならない。しかし、家族の預金は夫が家を出た翌日にすべて引き出されて隠された。

その頃の私は、夫が怖くて仕方なかった。

夫が不安定になり始めた頃から、毎日のように続く精神的な虐待。無視や罵倒、暴力的な態度。壁に穴を開けるなどの威嚇行動…それらすべてを耐え続けてきた。

それも当然だった。夫にはすでに他の女性がいて、私が邪魔だったのだろう。

私は毎日、次はどんな酷いことをされるのか恐れて過ごしていた。夫への恐怖は日を追うごとに増していった。彼はこの世で最も恐ろしい存在に思えた。

しかし、そんな恐怖に支配されているわけにはいかなかった。

私は夫にメールを送った。

「悠人と美穂の進路を決めるため、子どもたちと話をしてください。今度の日曜日はどうですか?」

三日が過ぎても返事は来なかった。再度メールを送っても、返事はない。

進路調査の締め切りが近づく中、私は焦り、賭けに出ることにした。

「あなたの行為は、法律的には『悪意の遺棄』に当たるのではありませんか?」

この言葉が夫にどう響くかは分からなかったが、事実を突きつける権利は私にはあった。

数時間後、夫からの返信があった。

「子どもたちとは話してもいいが、お前には会いたくない」

私は即座に返事をした。

「私が家にいない間に話してください。私は別室に移動しますので、どうか来てください。」

「約束しろよ」と、夫は返信してきた。私の作戦は成功し、なんとか日曜日に夫を家に呼ぶことができた。

その晩、夕食後、私は子どもたちにできるだけ明るい声で伝えた。

「あさって日曜日、お父さんが来るって。」

美穂は「お母さん、お父さんに会ったの?」と尋ねた。

「会ってないけど、電話があってね。進路のことを話したいって言ってたよ」と私は答えた。

子どもたちは不安そうだったが、私は続けた。

「進学費用は家族の貯金でしっかり確保してあるから、心配しないでね。ただ、お父さんは仕事が減ったことを気にして、ちょっとケチなことを言うかもしれない。でも、本心ではないから、悠人も自分の志望校をしっかり伝えてね。」

悠人は力強く頷いた。

「俺の志望校は変わらないよ。お父さんにちゃんと伝えるよ。」

私は安心して「よし、それでいい」と答えた。

悠人に自分の意志をはっきり言える力をつけてもらいたい。そして、私は夫を家に呼ぶことで、子どもたちと進路を話し合わせることだけでなく、もう一つの目的があった。

子どもたちの未来を守るため、私は何だってする覚悟だった。

不倫夫来る

その約束の日、夕暮れ時に彼は9ヶ月ぶりに家へ戻ってきた。

その姿は、一日中強い日差しの下にいたように顔は真っ赤で、手には手袋の跡が白く残っていた。

ゴルフでもしてきたのか…。

私は子どもたちに、彼が仕事で忙しくて休む暇もないとか、義母の介護で大変だと説明していたのだが、彼はそんな事情をすっかり忘れているようだった。

焼けた顔を見た子どもたちは何を思ったのだろう。

以前はあんなに子どもたちに会うことを避けていたのに、今では彼の態度はまるで別人のように変わっていた。

「家に戻ってくるつもりはないのか?」という私の言葉が、思いがけず彼に影響を与えたようだ。

彼は、家に帰らないことに対して全く悪びれる様子もなく、堂々とリビングに入り、ソファの真ん中に腰掛け、足を組んでふんぞり返った。

電話もなく、9か月も家に帰らなかったのに、少しは子どもたちに悪いと思う気持ちはなかったのだろうか。

そんな気持ちがあったなら、この態度はとれないはずだ。

彼の向かいには、二人の子どもたちが座っていた。

少し離れたダイニングテーブルには、私と健二が座っている。

健二はもう彼のそばには行かなくなってしまった。

彼が「お前は約束通り退席しろ」というように私を見た。

「ごめんね、ちょっと頭痛がしてきたから薬を飲んでくるわ。みんなで先に話してて」

私はそう言ってリビングを出た。

悠人が自分の意見をしっかり言えることを祈りながら、私は寝室のベッドに腰を下ろし、話し合いが終わるのを待った。

「親が子どもに対してできることは、心配することじゃなくて信じることだ」

いつか読んだ本の一節が頭をよぎった。

1時間ほど経った頃、玄関ドアが開く音がした。

急いでリビングに戻ると、彼はすでに家を出ていった後だった。

「お父さん帰ったの?ちゃんと話せた?」

リビングで子どもたちに尋ねる。

「お父さん、俺の大学進学にはかなり消極的だったよ」と悠人が答えた。

やっぱり…。

「それで?どうなったの?」

「結局、最後には昔決めたとおりでいいって言ってたよ」

「え、本当に?じゃあ予定通り東京の大学に行けるの?」

「うん、そう言ってたよ」

「そう、よかった。本当によかったね」

安堵の表情を浮かべる私。

なんだかんだ言っても、彼はやはり父親なのだ。離れて暮らしていても、いざというときにはちゃんと子どものために行動してくれるのだ。

彼もまた、17年間共に暮らしてきた実の息子を大切に思っているのだから。

不倫をして家を出たとしても、彼は子どもの前ではちゃんと父親として振る舞ってくれた。

その事実に、私はほっとした。

夕食を食べ始めた子どもたちを見守りながら、私はソファ前のテーブルの裏に隠していたICレコーダーをそっと外した。

彼が家に来る前、彼が座るだろう場所を予測して録音機をセットしていたのだ。

これならきっと、話し合いの内容が全て録音されているはず。

私はレコーダーをエプロンのポケットにしまった。

夜、一人で寝室に戻り、彼と子どもたちの会話を聞いた。

彼の横柄で高圧的な口調に、胸が締め付けられた。

「お前、本当に大学で勉強する気あるのか?」

「あるよ…」

「本当か?遊ぶために大学に行くやつには、うちから金は出さないからな」

「俺はそんなつもりじゃない…」

彼の言葉はまるで脅迫のように響いた。

だが、それに反発したのは、意外にも普段はおとなしい美穂だった。

「お父さんとおじいちゃんは、お兄ちゃんが小さい頃からずっと大学に行けって言ってたじゃない。それを今さら変えるなんて、ひどいよ」

健二も同調した。「お兄ちゃんは毎日ちゃんと勉強してるよ。お父さんが見てないだけだよ」

「お父さんは前に俺に大学に行ってもいいって言ったよね?」と悠人も反撃した。

彼らの言葉が次々と彼にぶつかっていく。

その一瞬、兄弟が一つにまとまっていた。

私はその様子に感動し、涙が溢れた。

録音の中、彼は最終的に「受験してもいい」と認めてくれた。

私はその言葉を録音するために、彼を家に呼んだのだ。

この録音が法的に有効かは分からないが、これは私にとって大事な切り札になるはず。

使う日が来ないことを祈りつつ、私は安心していた。

悠人はきっと、希望の大学へ進学できるだろうと。

その時、そう信じていた。

一通の手紙

夫は、依然として不倫相手の家で、まるで家族のように暮らしている。

一方、私は仕事を休んでいるが、不倫問題はまだ解決していない。だが、息子の大学進学費用が確保できたことで、少しだけ安心感を持っていた。

父親が不倫して家を出て行ったために、息子が希望していた大学に行けなくなるという最悪の事態は避けられそうだった。

家には十分な進学資金があり、夫と私はそのために長年貯金してきた。しかし、夫が家を出て行ったことで、進学資金の問題が生じるかもしれないという不安があったが、息子が進学できる見通しが立ったのは、一筋の希望だった。

その日、夕食の準備をしていた私は、玄関の前にある植木に水をやるのを忘れていたことを思い出し、外に出ると郵便受けに一通の手紙を見つけた。それは夫からの手紙だった。

心臓が高鳴りながらも、その場では読めず、私は近くの駐車場に車を止め、封を切った。

「息子の進学に関して、入学金は出すが、それ以外はそちらで負担してくれ」

その短い文面に、私は全身が凍りついた。夫が約束を反故にし、進学費用を負担しないと言い出したのだ。

私は夫が家庭を裏切り、不倫相手との生活を選んだことで、息子の未来が危ぶまれる事態に直面していた。それでも、子供たちにはこの事実を言えず、私はなんとか解決策を見つけなければならなかった。

センター試験まで残りわずか数か月しかない中、私はどうすべきか頭を抱えていた。

外 車

世間はちょうどお盆休みの時期だったが、私の頭の中は息子の進学費用のことでいっぱいだった。

数日前に届いた夫の手紙が、どうしても心から離れない。「息子の大学費用は出さない」という一文が、私の精神を押し潰していた。もう自分だけでは解決できないと思い、休みが明けたらすぐに弁護士に連絡しようと決意した。

法的な手続きを始めるということは、もう後戻りができないという恐怖が私の中にあったが、やむを得ない状況に追い込まれていた。

その日、私は近所のスーパーで買い物をしていると、偶然夫の仕事仲間の武田と出会った。彼は20代半ばで、数年前に夫の事務所に就職したばかりだった。

「お久しぶりです、奥さん!元気ですか?」と、彼は懐かしそうに話しかけてきたが、私の姿を見て心配そうな顔をした。「奥さん、また痩せましたよね…大丈夫ですか?」

私は無理に笑顔を作り、「ちょっといろいろあってね」と答えた。彼は私を気遣って、「みんな心配してますよ。少し話しませんか?」と言い、私たちは一緒に車に乗り込んだ。

武田は夫の仕事で起きたトラブルについて話し始めた。夫が顧客に対して、取引を仲介していた会社を無視して直接契約を持ちかけたため、大手の取引先を怒らせたというのだ。それは、夫がこれまで一度もやったことのない大胆で非常識な行動だった。

「最近、所長(夫)は何かがおかしいんですよ。まるで誰かに取り憑かれたみたいです」と、武田は真剣な顔で話した。それを聞いて私は、夫の変化に気づいていた自分と重なり、胸が痛くなった。

さらに驚くべきことに、夫が最近高級車を購入したことを武田から聞かされた。なんと夫はベンツを買ったのだという。息子の進学費用も出せないと言っていた夫が、外車を買ったとは信じがたい話だった。

息子の将来を左右する進学費用が必要な時期に、自分のためにそんな贅沢をしていたことに、私は言葉を失った。

車を降りた武田が何度も振り返りながら去っていくのを、私は運転席からただ黙って見送るしかなかった。

呼び出し状

あの日の音が、今でも耳にこびりついて離れない。きっと一生忘れることはないだろう。

それは、お盆休みが終わった翌日のことだった。休暇中に弁護士事務所にメッセージを残しており、その返事を待ちながら家で過ごしていた。

静かな家の中、子供たちは学校へ行き、私はリビングでアイロン掛けをしていた。そのとき、ふと小さな音が聞こえた。「ことん」という音は、かすかであっても妙に鮮明に耳に届いた。玄関に行くと、郵便受けに手紙が一通入っていた。

それは、一般的な茶封筒だった。宛名には私の名前が書かれていたが、夫の字ではなかった。裏面には差出人の名前もなく、不審に思いながらも封を開けると、そこには裁判所からの呼び出し状が入っていた。

夫から、離婚調停を申し立てられたのだ。いつかこうなるかもしれないと心のどこかで思ってはいたが、現実となると震えが止まらなかった。

封筒の中には、調停の期日が書かれた通知書、申し立ての内容が記された書類などが入っていた。裁判所が決定した期日や手続きが、私の知らないところで進められていたのだ。

「調停」とはただの話し合いだと聞いたことがあるが、突然裁判所からの呼び出しを受けることは、普通の人にとって大ごとだ。書類を何度も読み返すものの、内容が頭に入ってこない。ショックで思考が停止していた。

そのとき、携帯が鳴った。佐藤弁護士からの電話だった。彼女の落ち着いた声を聞いた瞬間、私は取り乱してしまった。

「先生、どうしよう…大変なことが起きました」と震える声で告げた。すると、佐藤先生は冷静に「大丈夫ですよ。明日お会いしましょう。夕方に時間を取ってあります」と優しく言ってくれた。

私は何としても早く彼女に会い、助けを求めたかった。調停についての知識がない私は、もう弁護士に頼るしかなかった。

自分がこの世から消えてしまえば楽になるかもしれない、そんなことも頭をよぎったが、私には子供たちがいる。だから、どれほど辛くても、立ち止まるわけにはいかない。傷つきながらでも前に進むしかない。

私の意志とは関係なく、法廷での長い戦いがこうして始まったのだ。

依 頼(1)

翌日の夕方、私は一人で隣町にある法律事務所へと向かっていた。持っているのは、裁判所から届いた調停呼び出し状と夫からの手紙。子供たちには「友人に会いに行く」とだけ伝えたが、その言葉が本当ではないことは彼らも気づいていただろう。それでも、他に言い訳を考える余裕はなかった。

車で約二時間かけて、目的地である法律事務所に到着すると、担当の弁護士が迎えてくれた。彼女はいつも通り冷静で、落ち着いた態度だった。

「実は、先日夫と子供たちが話し合いをしたんです」と私は切り出した。「そうですか、旦那さんがご自宅に?」と彼女が問いかける。「ええ、私が無理に呼んだような形ですけど」と私は曖昧に答えた。詳しい事情、特に「悪意の遺棄」という言葉を持ち出して脅したようなことは話せなかった。

「話し合いはうまくいきましたか?」と彼女は尋ねる。「ええ、一時は夫も長男の進学に反対していたのですが、最後には彼の希望を認めました。ただ、その後すぐに入学金しか出さないという手紙が届いたんです」と私は困惑した様子で手紙を差し出した。

弁護士は手紙を見ながら「勝手な言い分ですね」と静かに言った。「それで昨日、離婚調停の通知が届いて、もうどうしたらいいのかわからなくなってしまいました」と私は打ち明けた。

彼女は裁判所からの書類を確認しながら、いくつか質問を投げかけた。夫が調停を申し立てたのは、子供たちとの話し合いの直後であり、どうやらその約束を反故にするために急いで調停を起こした可能性が高い、と説明してくれた。

「誰かに反対されたのでしょうか」と私が問いかけると、弁護士は「そうかもしれませんね」と頷いた。「もしかしたら、不倫相手かもしれません」と私はつぶやいたが、彼女はそこについては特にコメントしなかった。

続いて、彼女は調停呼び出し状の詳細について説明し、「この日はなるべく行った方がいいですが、やむを得ない事情があれば日時を変更することも可能です」とアドバイスをくれた。「行かないわけにはいきませんよね?」と私は確認した。「はい、それは後々不利になりますので、必ず出席するべきです」と彼女は慎重に答えた。

そして、彼女は続けて「調停を前向きに捉えてみましょう。旦那さんが口約束を守らないのなら、調停を通じて法的に進学費用の支払いを約束させればいいんです」と励ましてくれた。その言葉に、私は少しだけ希望を感じた。

「確かに、そうですね…」と私は納得するように頷いた。弁護士はさらに、「これを機に、状況を改善するチャンスと捉えて頑張りましょう」と言葉をかけてくれた。

私はその言葉に支えられ、少しだけ前を向く力を取り戻した。これから始まる調停は、確かに困難な道のりかもしれないが、家族のために前進するための一歩だと思えば、きっと乗り越えられるだろう。

「先生、進学費用のことは何とかなるのでしょうか?」と不安そうに聞く私に、彼女は「まだ確定はしていませんが、大丈夫になるように頑張りましょう」と力強く答えた。

私は深く息を吸い込み、「どんなことがあっても、私、頑張ります」と決意を新たにした。

依 頼(2)

「これが調停申立書の写しです。『夫婦関係調整調停』とありますが、事実上、離婚を求める調停ですね」と弁護士は私に説明した。

昨日、頭が混乱していてしっかり見られなかった申立書を改めて確認する。そこに記された筆跡は、夫のもので間違いなかった。

一枚目には、夫の名前と住所、そして私と子どもたちの名前と住所が記されている。そして二枚目に進むと、「申立ての趣旨」として「離婚を望む」に〇がつけられていた。

離婚理由として、いくつもの選択肢があり、その中には「性的不調和」「性格の不一致」「精神的虐待」「異性関係」など、計13項目があったが、夫が選んだのは「性格が合わない」一つだけだった。

それが意外だった。嘘でも多くの項目に印をつけたほうが、離婚を早く進められるだろうに。逆に考えると、他の点については夫も問題ないと思っているのだろうか。そう考えると少しの満足感が湧いてきたが、それでもなぜ「性格が合わない」だけで離婚を望むのか、理解できなかった。

私はふと口を開いた。「不倫があるなんて、誰も自分で書きませんよね?」

弁護士は静かに頷いた。「そうですね。それが争点になります。離婚の原因は性格の不一致ではなく、夫の不貞だと証明する必要があります。この回答書にその旨を記載して提出しましょう」と彼女は続けた。

次に目に入ったのは「未成年の子の親権」についての項目だった。そこに記された夫の手書きの文字、「親権は母」とはっきり書かれていた。それを見て、私は愕然とした。夫は、子どもたちの親権を最初から放棄していたのだ。

子どもたちを手放すなんて、そんな残酷なことがあるだろうか。彼は、私を離婚し、子どもたちも要らないと言っている。そんな内容がこの書類に記されているのだ。

「先生、これってひどいですよね。普通、親権で争うのが離婚の一番大きな問題じゃないですか? それを最初から放棄するなんて…」

弁護士は少し間を置いて答えた。「残念ですが、旦那さんはそういう人だということです。」

私は悔しさと子どもたちのために涙を流した。あの子たちは何も悪いことをしていないのに、父親に捨てられるなんて。弁護士も「気持ちは分かります」と優しく言ってくれた。

「もう、夫は私が知っていた夫ではなくなったんですね。それを受け入れなければならないんですね」と私は静かに呟いた。

「そうですね。前を向かないといけません。センター試験まで4か月しかありませんから。」と彼女は応じた。

そうだ、私は泣いている場合ではなかった。先生の言葉で、私は現実に引き戻された。

「そうですね、泣いている場合ではありませんでした。」と私は言い直した。

「その通りです。美咲さん、調停の件、正式にお引き受けするということでよろしいですね?」

「はい、もちろんです。最初から先生にお願いするつもりでした。どうかよろしくお願いします。」

「頑張りましょうね、美咲さん。」と彼女は力強く言った。

こうして私は、夫から申し立てられた離婚調停という現実に向き合い、法廷での戦いに突入することになった。

依 頼(3)

離婚の調停について……

いつかはこの時が来ると覚悟はしていたが、実際にその瞬間を迎えると、やはりショックが大きかった。

特に、夫からの手紙に「長男悠人の大学進学費用は支払わない」と記されていたことが重なり、ショックは倍増した。

大学受験まで残り4か月だというのに。

「ところで、美咲さん、旦那さんの住所はどこに書かれていますか?」と佐藤弁護士が尋ねた。

「住所ですか?」

「お気づきではありませんか?美咲さんの自宅の住所とは異なるものが書かれていますね。これは旦那様の実家の住所でしょうか?」

佐藤弁護士が再度調停申し立て書を見せてくれた。

その時、慌てていて気づかなかったことに気づいた。

確かに、住所欄には見慣れない住所が小さく書かれていた。

それは夫の実家でも浅井設計事務所の住所でもなかった。

見たこともない住所だった。

嫌な予感がした。

まさか…

 

その場でスマホの地図にその住所を入力してみると、映し出されたのは、夫の不倫相手である沙織の家だった。

「この住所は不倫相手の女性の家のものです…」と告げると、

「旦那様は少なくとも半年ほど前からその女性と同居されているようですね」と弁護士が言った。

「正確にはわかりませんが、私が確認したのは半年前でした」と答えた。

「おそらく旦那様は、すでに不倫相手の家に住民票を移されているでしょう。そうでなければ、調停申し立て書にこの住所が書かれることはありませんから」

「え?私と離婚もしていないのに、正式に不倫相手の家に住所を移したということですか?」

「そのようですね」

衝撃だった。

夫が不倫を始めてから、数々の奇妙な行動をとってきたが、これは特に衝撃的だった。

夫の中では、私や子供たちとの生活はすでに終わった過去とされている。

私たち親子に見切りをつけ、新しい環境で新しい家族を築いているのだ。

「美咲さん、大丈夫ですか?」

「はい…大丈夫です。ここまでやるとは思わず、少し驚いてしまいました…」

「こんなことをする方は珍しいです。私も驚きました」と佐藤弁護士が言った。

「でも、これは不倫関係を自ら認めていることになりますよね?」

「そうですね。今後、美咲さんが裁判所に提出する回答書には、(夫の不倫が原因で夫は離婚したがっている)と記載することになります」

「はい…」

「そうなると、通常は(不倫はしていません。離婚理由は性格の不一致です)と旦那様側が反論するのが普通です」

「はい…」

「しかし、この住民票の住所があれば、そんな反論は通用しなくなりますね」

「はい…」

「旦那様が住民票を移していたことは衝撃的ですが、美咲さんにとっては悪いことではありませんよ」

「そうなんですか…」

「すでに不倫相手の家に住民票を移している事実は、旦那様の不倫を証明する証拠の一つになりますから。良い方に考えてください」

「そうですよね…わかりました」

理解したとは言ったものの、ショックは隠せなかった。

夫が私や子供たちを捨てようとしていることの証明であり、その不倫相手と家族になろうとしていることの証明でもあった。

「親権放棄」の問題と住民票の移動に関して、立ち上がっても打ちのめされてしまう。

好きな人ができたら、その人と時間を過ごしたいと思う気持ちは理解できる。

好きな人と結婚し、永遠の愛を誓いたい気持ちは誰にも止められないだろう。

しかし…

順番があるだろう。

好きな人ができたからといって、先に婚姻関係を結び、3人の子供がいるのに、その家族をなかったことにするのは許されない。

まずは現状の問題をある程度クリアにし、次の女性に進むのが人としての最低限のマナーだ。

なぜなら、捨てられた妻や子供にも守られるべき尊厳があり、これからの人生があるのだから。

捨てる側は捨てて終わりでも、捨てられる側はその事実を背負って生きていかなくてはならない。

この世は自分たちだけの中心には回っていないということを、夫も不倫相手も忘れてしまっている。

恋 は 盲 目

その美しい言葉では、私の絶望や、子供たちが受ける心の傷を片付けることはできない。

確実に、私たち家族は崩壊に向かっている。

私や子供たちの意志とはまったく反対の方向に。

いよいよ恐れていた法廷での戦いが始まる。

子供たちの生活と未来をかけた戦いが。

私の味方は佐藤弁護士ただ一人。

私は絶対に負けるわけにはいかない。

期日はちょうど一か月後だった。

この時、弁護士との関係がまさか6年も続くことになるとは、まだ知らなかった。

 

不 倫 

夫の不倫相手の女は西郷沙織。夫より5歳年上の50歳。北海道のこの街で生まれ、高校を卒業すると就職で東京へ出て行ったらしい。

そして東京で一人の男性と出会い結婚をした。住処を大阪に移し、男の子一人をもうけた。そして夫に不倫され離婚。どれくらい経ってのことか知らないが、離婚して大阪から一人息子を連れて北海道のこの街の実家へ帰って来たのだという。

離婚してから女は大阪の夜の街で働いていたらしい。北海道に戻ってから女は昼の仕事を求め、職を転々としたのだそうだ。転々としたということは、一つ所に留まれなかったということで。それがどんな理由かまでは聞いていない。

だが、それがなんなのかはなんとなく想像がつくのは私だけだろうか。結局夫と知り合ったときは生命保険の外交員になっていたとのことだ。察するに彼女の人生もまたずっと順風満帆だったとは私には思えない。

もちろん私には全く関係のないことで、余計なお世話なのだが。しかしながら我が家族に関わってきたのは彼女からなのだから、そこらへんは責められる謂れは私にはない。夫という存在を突然無くした女の気持ちは私にも痛いほどわかる。

一人息子を抱え、年老いた母親との3人暮らし。金銭的にも精神的にも心細い時もあっただろう。なにを言いたいかと言えば、たぶん彼女も彼女なりに必死に生きて来たんだと思う。愛する息子と母をしあわせにするために。夫を他の女に奪われる妻の気持ち。夫がいて子供がいて妻がいて、そんな家庭がかけがえのないものなんだという気持ち。

平和だった家庭が壊れていく恐怖。女は私がこの1年で味わったものほとんどを既に知っている。たぶんいやというほどに。

それでも西郷沙織という女はこれをやるのか。世の中には例えば自分が嫁に来た時散々姑にいじめられたから、息子の嫁に同じことをしてやろうそう考える人と、自分がやられて苦しかったからだから自分はやらないという二通りの人がいる。?は前者か。

この世に女は星の数ほどいるのに、我が夫はそういう人を新たな生涯の伴侶に選んだ。同じ選ぶのならもう少し良い人がいくらでもいただろうに。情けない。なんて言ったって夫を選んだ私も人を見る目がないということで、情けないのは夫と同じだ。

そんな沙織の話がある日私の耳に飛び込んできた。以前夫が仕事を抜け出して沙織と会っていたところの写メを撮って送ってくれた友達の孝子だった。「美咲、元気?元気なわけないよね、ごめん…」しばらくぶりの電話で何を話したらいいかわからないと言った風な孝子。

きっと私の現状は噂で聞いて知っているだろう。知っているのなら私が逆の立場でもなんと声をかけたものかと迷うだろう。「大丈夫だよ。孝子、心配かけてごめんね」

「そんなことないよ。何度も電話しようと思ったんだけどなにをどう話したら美咲の力になれるのかわかんなくて電話できなかった」

「うん、孝子の気持ちわかる。だから大丈夫」

「でもね、今日はどうしても電話しないでいられなかった」

「なに?なにかあった?」

「私、腹が立って腹が立ってどうしても黙っていられないんだよ」

「なに?なに?話してよ」と私。

「実はさ旦那さんと不倫女が会ってたクラブあるじゃん?」

「うん、駅裏のドルチェね」

「あそこねうちの旦那もたまに行くんだ。接待やらなんかで」

「そうなんだ」

「この前も久しぶりに行ってきたんだ。そのときね、仲のいいホステスとその…美咲の旦那さんの話になったんだって。もちろん、美咲のこと知ってるなんて言ってないから酔った勢いでホステスがいろんなことを聞かせてくれたらしい」

「…うん」

「そしたらさそのホステスがなんて言ったと思う?」

「なんて言ったの?」

「私の彼氏はもうすぐ離婚が成立して私と一緒になるんだって。そしたら私は設計事務所の社長夫人になるんだって。そうなったら今の保険会社もさっさと退職してやるだって」

あながち嘘ではないかもしれない。「そうか…」

「まだあるんだよ!」

「まだ?」

「女がさ、言ってるんだって。離婚が成立して籍を入れたら向こうの子供たちとどうやって仲良くなろうかしらって」

「仲良く?向こうの子供ってうちの子のこと?」

「そうだよ!美咲。母親がろくな母親じゃないから私が仲良くしてあげるんだって言ってるんだって!」

してあげる……。父親を奪っていった女、母親から夫を奪っていった女、家庭を壊した女、自分たちを苦しめた女。沙織はそんな女と子供たちが仲良くなると本気で思っているのか。仲良くなれる場合もある。しかしうちの場合は……。父親と女がしたこと全てを知ったとき、うちの子供たちは……。全く人の気持ちがわからない人なんだな。

私は沙織のことをそう思う。そういえば「うちの沙織には友達はいない」そう沙織の母親が言っていたっけ。人間社会において人の気持ちがわからないということは致命傷だ。そんな致命傷を抱えて彼女は生きてき、これからも生きるのだろう。可哀そうな人だと私はそう思う。もちろんこの話を聞いたときは頭に血が上った。しかし今冷静に考えるとそう思うのだ。いろんなものを奪い苦しめたうちの子と仲良く……どうやったらそんな思考になるんだろう。

金 策

夫が不倫相手の家に住民票を移していたことは、ショックだった。今さらながらだが、夫の本気が伝わったからだ。同時に、私や子供たちに対する気持ちが夫の中には欠片もないことが改めて伝わり、絶望した。

しかし、物事は一方方向から見ればマイナスでも、他方向から見ればプラスに働くこともあると、いつも佐藤弁護士は私に教えてくれる。この住民票を移した件についてもそうだ。夫の不倫を証明する証拠になるそう言って諭す佐藤弁護士の言葉に私は救われた。この住民票の件で私は一つ勝つ材料を夫からもらったと思えばいい。

自分と子供達のために戦うぞという意欲が湧いた。やれるだろうかなどと悠長なことを言ってる場合ではない。悠人のセンター試験までもう4か月しかないのだ。なにがあっても私はやる。「大学費用は出さない」と言っている夫から進学費用を奪い取る。子供達の生活と大事な未来を守るために。

差し当たっての問題はお金だった。調停の弁護士への着手金として取り敢えずは20万必要なのだ。「着手金はいつでもいいですよ」我が家の家計の事情を知った佐藤先生はそう言ったが、依頼したからにはなるべく早く払いたい。そんなことで先生に迷惑はかけたくない。

夫は家を出るとき家族の通帳を持ち去った。その通帳は夫名義名のため返せと今は言えないらしい。だから私の手元には20万という大金はないのだ。借金を頼めるあてもない。しかし、落ち込んでばかりはいられない。まず私はありとあらゆるものを売った。夫が買って置いていった大型テレビ、アンプやスピーカー、CDに本にあまり使わない家電、私の自転車にバックに結婚指輪に婚約指輪、ワンピースやコートやスーツや喪服、花嫁道具の着物一式。買い取ってくれるというものは片っ端から売りはらい、私のクローゼットは空同然になった。

それで得たお金が14万、あと6万。今の私には6万円は大きい。あと節約するものと言えば私の心療内科の通院費ぐらいしかない。でも安定剤なしで今の私は生きていけるのか、無理だ。でもお金は必要。もしかしたらこれが最後の通院になるのかもしれない、そう思いながら私は一ヶ月ぶりに心療内科を受診したのだった。

傷 病 手 当

夫が浮気を始めた頃、私は彼の態度の急な変化に耐えられず、精神科を受診した。それから1年半、私はここを受診していなければ、おそらく今生きていないだろう。この精神科の医師やスタッフには感謝しかない。その日、いつもの診察室に通されると、穏やかな医師が迎えてくれた。「あなた、その後夫とはどうなりましたか?」通院を始めて1年半、もう私の家庭の事情は病院のスタッフ全員が知っている。

夫と子供たちの話し合いのこと、夫からの手紙のこと、そして離婚調停を起こされたこと。私が最近の出来事を話す間、医師は静かに聞いていた。「あなた、また痩せたようですね。お体は大丈夫ですか?」

「はい…」

「正直、私は心配です。でも受験を控えたお子さんたちのことを思えば、頑張るなとは言えません」

「はい…」

「あなた、提案なんですが、裁判所に診断書を持って行かれてはどうでしょう」

「私の診断書ですか?」

「そうです。心の状態は一目ではわかりません。裁判所の方々にあなたの状態を伝えるのは、医師の私から診断書をお出しするのが誰の目から見ても一番わかりやすい」

なるほど、裁判所で眠れない、食べれない、体調が悪いいくらそう私の口から主張したところで、「大変ですね」で終わるのが関の山。精神科からの診断書があれば、こんなに心強いことはない。「書いて頂けるんですか?」

「はい。出来る範囲で書かせて頂きます。応援というか、援護射撃ですね」いつも冷静で何を聞いても表情を変えない医師が少しだけ微笑んだ。

ありがとう。ありがとう。ありがとう。「はい。お願いします。そんなこと思いつきもしませんでした。よろしくお願います」診察室を出ると、いつものカウンセリングルームで看護師が待っていた。

「隣室でお話は聞いてました。あなた、弁護士を入れるとお金かかるでしょう?大丈夫ですか?貯金全部夫が持って出たって言ってたじゃないですか」

「そうなんです、いろんなものリサイクルショップに売ってみたんですけど弁護士費用までにはならなくて。それでなくてもこれからダブル受験でお金かかるのに。払えないものは雇えないですよね。でも弁護士なしじゃ勝てるわけないし」

「今の生活費ってどうしてるんですか?」

「夫の設計事務所も世間体もあるんでしょう。私のお給料分位は夫から今のところは振り込まれています。4人で生活するのにギリギリな額ですが」

「そうですか、あなた、傷病手当って知ってます?毎月の振り込みが婚姻費用ならば傷病手当が受けられると思うんだけど」

「そうか、その手があったか」夫の設計事務所で長く経理に携わってはいたが、傷病手当を利用した社員はない。だから実際の手続きはしたことがないけれど、傷病手当の名前ぐらいは知っていた。

「そうですよ。あなた、うちの診断書があれば傷病手当受けられるじゃないですか。申請してみてください。あるものは利用しない手はないですよ」

目から鱗だった。今、言われるまでそんなものの存在などすっかり忘れていた。傷病手当は申請しないともらえない。でも申請さえすれば私はそれにきっと該当する。このまま気付かず申請しなければもらわぬまま諦めていたかも知れない。

「ありがとうございます。ほんとにいつも助けてもらって」私は診断書を手に何度も頭を下げた。これで戦える。これでなんとか戦える。私は絶対に負けない。子供たちの幸せなくして私の幸せはないのだ。

過去からの電話(1)

夫が浮気を始めてから11ヶ月が過ぎた。北海道の9月は日中は過ごしやすいが、朝晩はもうストーブが欲しくなる。もうあの寒い冬がやってくる。しかし今年の冬は、離婚調停を控えている私にとっても、受験を控えている長男長女にとっても、過去とは全く違うものになるだろう。

離婚調停、裁判所に行くだけで体が震える思いがした。夫のことなどもう構いもしないから、逃げることができたらどんなにいいだろうか。子供たちを学校に送り出し、私はそんなことを考えていた。その時、携帯が鳴った。全く予想もしない相手だった。

「はい。浅井ですが…」

「奥さんですか?私敏子です」

「もしもし、敏子ちゃん?うわぁ、ずいぶん久しぶりだね」

「奥さん、本当にお久しぶりです。1年ぶりかな?とにかくほんとにお久しぶりです!

敏子ちゃんとは井端敏子、夫の設計事務所で度々仕事を依頼している井端左官の跡取り娘だ。敏子は3歳の娘を育てるシングルマザーだった。井端左官は親族会社で、お父さん、お兄さん、事務に敏子ちゃんの3人で経営している。敏子ちゃんの娘さんとは何度か遊んだこともある。

「奥さん、実はしばらく前から奥さんが設計事務所に来てないって社員さんから聞いて」

「うん…いろいろあってね」

「あの…所長さんの噂もいろいろ聞いてて」

「うん…そうだろうね」

「ずいぶん迷ったんですけど、奥さん困っているのならお知らせした方がいいのかなって、私」

「私に?どんなこと?」

「奥さんにはほんとに言いにくいことで、私、一生言わないつもりでいたんです。こんなこと知ったら奥さん、ショック受けると思ったから。だけど奥さんが今所長さんのことで困っているなら知らせたほうがいいんじゃないかって。なにかの助けになるんじゃないかって」

「敏子ちゃん…良かったら話してみて。私は大丈夫!ちょっとやそっとのことでショック受けたりしないから」

気安くそんな言葉を吐くものではない。敏子ちゃんの話の内容はそのちょっとやそっと以上のことだった。

「こんな話でほんと奥さんに申し訳ないんですけど…」

「大丈夫だってば!」

「…実は旦那さんが設計事務所の所長さんになってから2ヶ月くらいのことなんですが」

「うん」

「ある日、所長さんに呼び出されたんです….話があるって」

「話?敏子ちゃんに?なに?」

「それが、二人だけで話したいって言われて…」

「え?二人だけ?それで会ったの?」

「はい。ごめんなさい…」

「そんなことない。誘ったのはうちの旦那だからね」

「うちの会社は旦那さんの事務所に仕事もらってるから。とても断れる立場じゃないから。機嫌損ねたら怖いし、会いました。駅前のSAKURAって喫茶店で」

「それで?俊太郎、何の話だったの?」

「それが…」

「敏子ちゃん、ちゃんと教えてほしい」

「はい。…俺の愛人にならないかって。月10万でどうだ?って言われました…」

「嘘でしょ…ほんとにそんなことあの人が敏子ちゃんに?」少なくとも私が知っている昔の夫はそんなことを言う人間じゃない。

「ごめんなさい…奥さん、嘘じゃないんです…」

「俊太郎、敏子ちゃんに愛人になれなんて言ったの?月10万円でって?」

「はい…二人だけの秘密にすれば絶対にばれないから大丈夫って」

「そんなこと…」

「月10万なら悪くないだろって。シングルマザーなんだし、子供にもお金かかるだろうから悪い話じゃないだろって」

「…」

「もちろん、お断りはしました。私にはそんなことできませんって」

「…そうだよね。なんて失礼なこと言うんだろね愛人だなんて。そんなことがあったなんて私全然知らなかったもんだから敏子ちゃん、ごめんなさい」

「そんな、私が奥さんに内緒にしてたわけだし、奥さんは悪くないですから」

「それで?それで俊太郎はわかったって?」

「私も悪いんです。その場で断ったんですが、その後の仕事もらえなくなったらとかいろいろ考えちゃって。本気で怒れなかったっていうか。逃げるようにやんわりとしか断れなかったから…」

「俊太郎、諦めなかったの?」

「はい、その後も電話が来たりうちの事務所に来たり何度も誘われました。最後には金額が少ないからうんって言わないのかまで言われて」

私の夫はそんな男だったか。義父が何人も愛人を作り散々泣いてきた母を見て「俺は常に母の味方してきた」と夫は言った。女遊びをやめない義父を一番嫌っていたのは夫自身だった。

「奥さんが離婚されるとしたら。これから所長さんといろいろ戦うことになるんじゃないかなって。私も離婚調停しましたから。こんな話でも奥さんが勝つための役に立てばって思って私、お話しすることにしたんです」

「敏子ちゃん…ちょっと教えてほしいんだけど」

「なんですか?」

「こういうこと前にもあった?あの人が所長になる前とか」

「ありませんよ。今回が初めてです。たまにはそんなセクハラめいたこと冗談で言ってくる人も中にはいますよ。私がバツ1だからからかって。けど所長さんはそんなこと一度も言ってきたことなんてありません。所長さんはそんなこと言う男と真逆のタイプだと思ってました」

「…そうだよね。私もそう思っていたから….でも、敏子ちゃん、ほんとありがとう。こんな言いずらい話、わざわざ。私のことなんか知らないふりして黙っていることもできただろうに」

「なんだか旦那さん所長さんになってから別人みたいですよね。人が変わったっていうか。顔つきが変わったっていうか。やることも変だし。昔の旦那さんと同じ人とは思えないって感じで」

「そうだね、社員もそう言ってた。敏子ちゃん、いやな思いさせてごめんね」

「いいんです。あの、奥さん。それからもう一つあるんです」

「もう一つ?まだなにかあるの?」これ以上なにがあるのだろうか。もう逃げたい….これ以上なんて、いったい何が出てくるの?

過去からの電話(2)

「奥さん、もう一つあるんです」と、浅井設計事務所の下請けの井端敏子が私に言った。夫が敏子ちゃんを愛人にしようとしていたという話だけでもショックなのに、これ以上まだなにかあるの?もう聞きたくない….正直私はそう思ったのだった。

「もう一つ?…まだなにかあるの?」

「奥さん、旦那さんが所長になりたての頃、ほんのちょっとの間だけそちらの事務所に事務の女の子が入ったじゃないですか」

そうだった….そんなこともあった….当時仕事が忙しく大学出たての事務員を雇ったことがあったのだ。もっとも彼女は2ヶ月足らずで突然辞めてしまったのだが。「そう、そう…こんな騒動で忘れていたけど、2か月足らずで辞めてしまった女の子いた。その子がどうしたの?」と私。

「名前、外山さんでしたよね。あの子、何の断りもなく突然事務所に来なくなったんですよね?」

「そう…聞いてもやめる理由は言わなかったんだ」

「実は設計事務所辞めた後外山さんに偶然会って。そしたら…」と敏子。

「…なに?会ってなに?」「私と外山さんは年も近いじゃないですか。だから何度か話をしたこともあって」外山さんは大学出たての22歳。敏子ちゃんは24歳のシングルマザー。境遇は違えどもおじさんばかりの職場では顔を合わせれば自然と仲良くなることもあるだろう。

「私、外山さんとはそちらの事務所で顔見知りになってからたまにスーパーとかでばったり会ったりすると世間話したりしていたんです」

「そうなんだ」

「そんな仲だったもんで彼女が事務所辞めてから再会した時にどうして急に辞めたのって聞いたんです」

「うん、そしたら?私も何度も聞いたんだけど彼女絶対に理由言わなかったんだよね。私には」

「彼女口ごもって最初はなかなか言わなかったんですが。?も本当は誰かに聞いて欲しかったんでしょうね。どうも事務所を辞めた理由が所長からいろいろとセクハラがあったからみたいなんです」

「セクハラ? 」

俊太郎が大学出たての女の子に?私も同じ職場にいるのに?」

「奥さんが帰られた後事務所に二人きりになったとき所長が私に言ったみたいなこと言ったみたいで…」

「うそ!外山さんにも愛人にならないかって?」

「はい。あと、それを言われて逃げようとしたときに所長に腕掴まれたとかで」

「外山さんの腕をつかんだの…?」

「はい。?、それで怖くなって次の日から事務所行かなかったって」

外山さんは化粧っ気もなく純情そうで本当に「女の子」という感じ。社会人というよりは娘の美穂とたいして変わらない印象。そんな子に…ひどい….外山さんは私の事務の補佐的仕事をするために設計事務所に入ってもらった。来なくなる前の日まで私と一緒に普通に事務所で働いていた。その日もいつも通り私と仕事をしお弁当を食べ笑いながら雑談もした。その日の夕方5時過ぎ、私が先に退社するときも外山さんは笑顔だった。

「奥さん、お疲れさまでした」

「お先に失礼します。外山さん、また明日ね」

「はい、気を付けて」そんな会話で私はいつも通り事務所を後にした。なのに次の日出社してみると彼女はいなく彼女の机もロッカーも空になっていたのだ。そしてその後彼女から一切連絡は来なかった。こちらから彼女の携帯に何度も連絡したが電話に出ることはなかった。当時私には彼女の気持ちが全く理解できなかった。なぜ?どういうこと?なにが悪かったんだろう。彼女はそんな無責任なことをする女性には見えなかった。だとするとよっぽどの理由があったに違いない。それっていったいなんだろう。当時の私には謎だった。

事務方としては退職届ももらわなくてはならないし保険証も回収しないとならない。大学を出てこれから社会に出て行く彼女。こんな無責任な辞め方を許しては彼女のためにならない。そう思い私は彼女を事務所に呼び出し説教をした。「外山さん、事務所を辞めるならそれでもいいんだけど。あなたは正社員なんだからせめて辞めるって事くらいはちゃんと辞表を出して伝えてから辞めるべきじゃないかな。

保険証だって返してもらわないといけないことになってるし。どうやったってある日突然来なくなってそれで終わりって訳にはいかないよ。もう社会人なんだから」彼女は俯いて私の言葉を黙って聞いていた。彼女がこんな無責任なことをする人でないことはわかっている。ではなぜ?

「ねえ、外山さん、いったいどうしたの?前の日まで普通にお仕事頑張ってたよね。何かあったの?私にできることがあったらするから話してみてくれないかな」

「…」

「もし事務所になにか不都合があったなら改善できることは善処するから話してくれない?お願い」私は何度もそう頼んだが彼女は口を噤んで最後まで辞める理由は頑として言わなかった。あれは言わなかったのではなく言えなかったのだ、特に私には。むしろ、私だけには。理由を教えてと言う私の目の前で彼女は無言で涙を流した。

なんてことを私は彼女にしたのだろうか。自分の夫がしでかしたことも知らず彼女を問い詰めるなんて。どうせ辞めるんだから夫のことを暴露してすっきりしても良かったはず。彼女がかたくなに口をつぐんだのはたぶん、おそらく私を傷付けないため?私はなんてことをしてしまったんだろう。

「敏子ちゃん、その後外山さんとは会うことある?」

「以前もたまにスーパーで会うぐらいだったんですけど最近は全然見かけません」

「そうか。敏子ちゃん、教えてくれてありがとう」

「とんでもありません。私こそ今まで黙ってて申し訳ありませんでした」

「そんなことないよ。こっちこそ所長がごめんなさい…」

「離婚する時って嘘みたいにもめるんですよ。私、経験者ですからわかるんです。その時にこの話が少しでも奥さんの役に立てばと思ったから」

「うん、わかる。もめるよね。ありがとう」

「お子さん達のためにも負けちゃダメです。頑張ってください」

「うん、頑張るよ」

「もし調停とかなにかになって証言必要になったりしたら私、証言しますから言ってください。裁判所でもどこでも行きますから」いくら調停が行き詰まっても敏子ちゃんにそんなことはさせられない。私の味方に付けば井端左官には設計事務所から仕事が行かなくなるから。

敏子ちゃんの気持ちだけで私は充分。「うん、敏子ちゃん、ありがとう」また私はこうやって人によって生かされる。それにしても24年も一緒にいて初めて知る夫の裏の顔。私は夫の一体なにを見てきたのだろうか。でも何度も言うが夫はこんな人ではなかったはず。かつて私が愛した男はこんな人ではなかったはずだ。だが悲しいかなこの時点で一つはっきりと言えることは私の目がとんでもない完全なる節穴だということだろう。

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