書類捏造の思い出
私は夫の不倫に気付き、半年が過ぎた頃に設計事務所の食堂で赤い口紅のついたタバコの吸い殻を見つけた。社員は、ずっと前から時々捨ててあるのを見ていたと言った。不倫相手の沙織が、私のいない時間に設計事務所に出入りしていたのだった。
私は弁護士のアドバイスで、不倫相手の女の家に単身乗り込み、それがきっかけで私は義父、夫、女の母親、女の姉、叔父叔母から吊し上げに合った。その後、私は設計事務所には行けなくなり、慌てて休職願を出した。
しかし、設計事務所から「保険証を返却しろ」と書いてあった手紙を受け取った私は慌てて電話を した。電話に出たのはGPSを夫の車に付けてくれた鈴木だった。私は「私ね、ずっと事務所に行けてないじゃない。具合が悪くって」と説明したが、鈴木は「会社から不当に解雇は出来ないわけだし、 辞めるとしたらそれ相応の病気である診断書とか、あとは奥さんが退職願いでも出さないと辞める ことにはならないですよね」と言った。
私は司法書士に電話をしたが、司法書士は「俊太郎君がこっちに来て、美咲さんが退職するから手続きしてくれって言われたんだ」と言った。私は「私退職するなんて一言も言っていません」と否定したが、司法書士は「俊太郎君がそう言ってたから。だからそれならば、美咲さんから退職願を書いてもらって、保険証を返してもらって、書類にサインをもらってくるように教えたんだよ」と言った。
私は「私、サインもしていませんし、退職願も書いていません」と再び否定したが、司法書士は「いやいや、ちゃんともらったから」と言った。私は「先生、それ見せて頂くことって可能ですか?」と尋ねたが、司法書士は「まあ、本人だから見せてもいいでしょう。ファックスで今送るよ。ちょっと待ってて」と言った。
ファックスが届いた後、私は退職に関する会社既定の書類の一番最後には、署名捺印の欄があり、そこには見知らぬ女文字の私の署名と、三文判が押されてあった。私は「俊太郎がだれにこれを書かせたか。こんなことに手を貸す協力者は一人しかいないと、私はどうしても思ってしまうのだ」と思った。
第一回婚姻費用減額調停
私は生活費が12万円しかないことを知り、困惑した。夫の設計事務所の売り上げが減ったため、 役員報酬を減らしたという話だった。しかし、実際には売り上げは減っていなかった。私は夫が嘘をついていることを知り、ショックを受けた。
私は調停委員に、夫の収入が減ったという話を聞いたが、実際には減っていないことを伝えた。 調停委員は、夫の収入が減ったという話を信じ、生活費を減らすことを提案した。
私は夫の収入が減ったことを証明するよう求め、調停委員は夫の収入が減ったことを証明する書類を提出するよう求めた。
その後、私は夫の設計事務所の社員に電話をかけ、実際の売り上げ状況を聞いた。社員は、売り上げが減っていないことを証明し、夫が嘘をついていることを明らかにした。
私は夫の嘘にショックを受け、義父母が私と子供たちを見捨てたことを知り、さらにショックを受けた。私は、夫の役員報酬を減らすために、義父母が協力したことを知り、悲しみに沈んだ。
旅立ち前夜
悠人の旅立ちの前夜、家族は最後の夜を共に過ごす。私は、悠人に何を食べたいか聞いたところ、 唐揚げ、ポテトサラダ、チャーハンと答えた。普段の食事と変わらないものばかりだったが、 「しばらく食べられないから、この味を覚えておきたい」と悠人は言った。
私は涙が出そうになりながら、夕食を心を込めて作った。美穂と健二も落ち着かない様子で、リビングにいた。私はなるべく普通に振る舞おうと、いつも通りの大きな声で「悠人、ご飯できたよ」と呼んだ。
悠人もいつも通り振る舞おうとしていたが、健二は「僕、お兄ちゃんいなくなるの寂しいな」と言った。悠人は「ゴールデンウィークには帰って来るから、大丈夫だよ」と笑顔で答えた。
家族はいつも通りだけど特別な夕食を共に過ごした。私は悠人の笑顔を見ながら、かけがえのない存在とはこういうことだなと確信した。
私はアインシュタインの「娘への手紙」を思い出した。愛は光であり、引力であり、力である。愛は神であり、神は愛である。私は悠人に出会えたことで、この世にはなにものにも負けない愛があることを知った。
私は悠人に「ありがとう」と言った。悠人は私に「愛」を教えてくれた。私は悠人を愛している。
旅 立 ち
この朝、悠人は大学進学のために家を出る。私は寂しさを感じながらも、悠人を送り出す。
私は朝食を作りながら、悠人のことを考えていた。悠人は生まれたときからこの家で育ち、18歳に なった今、大学進学のために家を出る。私は悠人のことを心配していたが、悠人は強い子で、自分で生きていくことができる。
朝食の後、悠人は美穂と健二に頭をなでて、「二人とも元気でな。お母さんのこと頼むな」と言った。美穂は近所の土地神様のお守りを悠人に渡し、健二は「こっちは俺がいるから、お兄ちゃんは東京で頑張れ」と言った。
私は車で悠人を空港まで送る。車の中で、悠人は「美穂、健二のこと頼むね。火、使うときは気を付けてね。冷蔵庫にいっぱい作り置きしてるから、好きなの食べてね」と言った。
空港に着くと、悠人は車から降りて、「行ってきます」と言った。私は車の窓を開け、美穂と健二に「悠人のこと、頼むね」と言った。美穂と健二は道路に駆け出し、手を振った。
私は車を運転し、空港を出た。悠人は大学生活を始める。私は悠人のことを心配していたが、悠人は強い子で、自分で生きていくことができる。私は悠人のことを信じている。
東京での生活
私は息子悠人と一緒に、東京の新しい生活を始めるために、新千歳空港から飛行機に乗った。十年 ぶりに東京に来た私は、都会の喧騒と人々の忙しさに圧倒された。私たちは悠人の新しいアパートに向かい、不動産屋で契約書を確認し、注意事項を聞いた後、悠人の新居の鍵を受け取った。
アパートは静かな場所にあり、周囲は落ち着いていた。悠人の部屋は一階で、コンパクトな六畳の洋間だった。私は部屋の狭さを心配したが、値段の割にきれいで安心した。
その後、私たちは配送業者から荷物を受け取り、生活必需品を部屋に運び込んだ。私は段ボールを解き、食器、洗剤、衣類などを部屋に配置していった。二時間ほどで住める環境が整った。
悠人と私はアパートを出て、近くの自転車屋でピカピカの自転車を買った。大学には自転車通学となるため、必要だった。私たちはその後、地元のスーパーを探し、カレーの材料と調味料を買った。
夕方、悠人と私はアパートに戻り、カレーを作った。明日も食べられるようにたくさん作っておいた。シャワーを浴びた後、悠人は敷布団に毛布で、私は掛布団を二つ折りにしてその間に入った。 二人は話す間もなく、あっという間に眠りに落ちて行った。
愛する息子と息子の新天地で二人。しあわせで満ち足りた夜だった。
別れの時
私は息子悠人と一緒に、東京の新しい生活を始めるために、朝早く起きた。悠人はまだ寝ていたので私はそっとカーテンを開け、静かな住宅街の景色を見た。大学までは自転車で10分の距離で、息子を一人置いていくには十分な環境だと思った。
私は悠人の寝顔を見て、過去の思い出を振り返った。悠人は小学校の時、友達と一緒に窓ガラスを 割ってしまったが、友達が反省の色無しだったのに対し、悠人は泣きながら先生に謝ったことを思い出した。
私は悠人の成長を振り返り、初めての寝返り、立った時、歩いた時、友達を作った時、主役になったお遊戯会、ランドセルを背負った時、100m走で走る姿など、すべての喜びを思い出した。私は悠人から喜びしかもらっていないと思った。
私は朝食を作り、悠人が起きてきた。私たちはいつも通りの朝食を食べ、悠人は大学の説明会があることを伝えた。私は悠人に頑張るように伝え、自立する子供が必ず通る道だと言った。
悠人は身支度を整え、玄関に立った。私は「悠人、頑張れ!」と声をかけ、悠人は「うん、わかってるよ」と返事をした。私は部屋を掃除し、時計を見ると12時前だった。悠人はまだ帰らないので、私は身支度を整え、悠人の帰りを待った。
しかし、悠人は帰ってこなかったので、私は準備した贈り物と手紙をテーブルの上に置き、キャリーバックを持ち、玄関を出た。私は悠人に「頑張れ!」と叫び、悠人のアパートを後にした。
駅のホームで電車を待っていると、悠人からラインが来た。私は悠人の気持ちは手に取るようにわかり、涙が止まらなかった。私は「悠人、頑張るんだよ!!!!」と返事をした。
悠人への贈り物
私は悠人のアパートを出て、駅のホームに立った。私は悠人に贈り物として、白いオルゴールと手紙を置いてきた。オルゴールには、悠人が幼稚園の時に私が作ったポケモンのキャラクターが30個入っていた。私は悠人に「ありがとう」と伝えたいと思った。
私は手紙に、悠人の成長を振り返り、18年間の思い出を書いた。私は悠人に、大学生活を楽しんで 有意義なものにしてほしいと伝えた。私は悠人に、都会の生活に慣れるまで大変なこともあるだろうけど、必ず慣れるから大丈夫だと伝えた。
私は悠人に、頑張れと伝え、飛行機に乗って北海道に戻った。私は法廷での戦いが待っていることを知っていた。
母の後悔
私は、息子悠人の大学進学の費用を勝ち取った後、離婚調停と婚姻費用減額調停に忙しくなり、心も体も疲弊していた。悠人の巣立ちの時、私はあまりにも多くのことを考えていなかった。例えば、 悠人の引っ越しに際して、米やレトルト、缶詰、カップラーメンなど、すぐに食べられるものを送ってやればよかった。自炊も、家にいる間に少しずつ教えておくべきだった。
しかし、夫の不倫騒動で、実際にはなにも教えず、東京に出してしまった。悠人はサッカーばかりやっていたので、ろくな私服も持っていなかった。東京に行く前、一緒にショッピングモールに行ったが、資金がなくて、安物のバーゲン品のパンツとTシャツしか買ってやらなかった。
今になって思えば、大学生は毎日が私服なので、お金も持っていないので、困っただろうなと申し訳なくなる。もしもこの時のことを戻して謝れるなら、土下座したい。
離婚調停や裁判所なんて、たいしたことないと書いている人を私は見たことがあるが、実際にはそう簡単ではない。私は陰キャラで、泥水をすすりながら這いつくばって生きていくしかなかった。
人間はひどい目に合うと、ここが底かのように思うが、実際には底はもっと下にある。私はまだまだ落ちていくしかない。
調停室での対面
息子の悠人が東京の大学に進学して3週間が経過した。最初の数日は頻繁に連絡があったものの、 突然音信不通になった。後になって、深刻なホームシックに悩んでいたと知ることになる。当時の 私は離婚関連の手続きに追われ、息子の心情に気付くことすらできなかった。
家には美穂と健二が残っているが、悠人がいない空間は何か物足りない。私たち3人は、この新しい日常にまだ馴染めずにいた。
今日は2回目の婚姻費用減額調停の日。いつものように紺のスーツを着て、髪を後ろで束ねて裁判所へ向かった。
佐藤弁護士との打ち合わせで、新たな戦略が見えてきた。私の元々の立場を利用して、
生活費を婚姻費用ではなく、休職中の給与として受け取る可能性を探ることにした。
調停室で夫の提出した家計収支表を見て、私は愕然とした。架空の住居費用、過大な被服費、存在しない新聞代、そして子供の進学費用の積立金まで。明らかな虚偽の数字が並んでいた。
一方の私は、過去3ヶ月の全ての領収書と通帳を精査し、正確な収支を円単位で計算して提出した。この対比が、私たち夫婦の本質的な違いを如実に表していた。
調停委員から「質問はありますか?」と問われても、あまりの虚偽の多さに、どこから指摘すべきか言葉が出なかった。
対面調停の真実
佐藤弁護士の提案で、夫との対面調停が決まった。夫が提出した不自然な家計収支表について、直接質す機会が欲しかった私は、恐怖心を抑えてこれに同意した。
調停室では、夫とその弁護士が向かい側に座っていた。まず私の収支表について夫からの質問を求められたが、夫からの発言はなかった。当然だ。私の提出した数字は、全て事実に基づいているのだから。
しかし、夫の収支表への私からの質問は止まらなかった。架空の住居費用、不自然に高額な被服費、出所不明の公共料金、そして既に積み立て済みのはずの教育費用。全ての項目に疑問符が付いた。
私の矢継ぎ早の質問に、夫は一言も答えられなかった。おそらく、収支表がこれほど詳しく精査されるとは想定していなかったのだろう。
さらに佐藤弁護士は、夫が私を一方的に解雇しようとした件を取り上げた。従業員の解雇には正当な理由と適切な手続きが必要なこと、そして私の署名を無断で使用した違法性を指摘。加えて、別居に至った経緯を考えれば、現在の生活水準を維持できる婚姻費用の支払いは当然の義務だと主張した。
調停委員も、私の署名の偽造について深刻な表情を見せた。その瞬間、夫の顔が真っ赤に染まっていくのが見えた。
佐藤弁護士の的確な指摘は、私の中にあった不安や迷いを一掃してくれた。これまでの夫の行為が、いかに不当なものだったかが明確になった瞬間だった。
最後の訴え
調停の場で、夫は自身の虚偽の収支報告と不当解雇の件について、一切の弁明ができずにいた。 夫の弁護士も、これらの事実を知らされていなかったのか、落ち着かない様子を見せていた。
この機会を逃すまいと、私は用意してきた要望書を提出することにした。調停委員の許可を得て、全員の前で配布した。
要望書には、これまで胸の内に秘めてきた全てを書き記した。夫の突然の失踪、不倫相手との露骨な同居生活、それによって私たち家族が受けた精神的苦痛。特に子供たちへの影響を強調した。
市内での目撃情報や旅行のエピソードなど、具体的な事実を挙げながら、夫の無責任な行動を指摘。さらに、家族共有の預金を独占している不当性も訴えた。
最も重要な点として、不倫相手とその家族の生活費捻出のために、実家族の生活費を削減しようとする夫の姿勢を厳しく非難。給与明細の証拠も持っていることを示唆しながら、従来通りの生活費支払いを要求した。
調停委員は、一つ一つの文章を丁寧に読み進めながら、深刻な表情で頷いていた。この要望書が、今後の調停の重要な転換点になることを、私は確信していた。
戦略的勝利
調停の場で、私は慎重に練り上げた戦略を実行に移した。
「悠人が出て行った以上、生活費を減額するのは当然だ」
予想通り、夫とその弁護士はそう主張してきた。
しかし、私には反論の準備があった。
「あなたは自分の意思で二つの家庭を持つことを選んだのです。しかも、不倫相手は仕事も辞め、 その息子と母親まで一緒に暮らしている。なぜ私たち正当な家族の生活費を削って、そちらの面倒を見なければならないのですか?」
調停委員も私の主張に理解を示した。夫は反論できず、充血した目で黙り込むばかり。
実は、私と佐藤弁護士は事前に話し合っていた。悠人の分として3万円程度の減額なら受け入れる準備はあった。しかし、それを最初から提示せず、まずは全額を主張。夫の不誠実さを浮き彫りにしてから、こちらから譲歩する形を取ることにしていたのだ。
「3万円程度なら減額を考えてもいい」
最後にそう切り出すと、すでに追い詰められていた夫は即座に同意。私たちの作戦は完璧に成功した。
後日届いた調停調書には、私たちが望んだ通りの金額が明記されていた。強制執行も可能な法的効力を持つこの書類で、子供たちの生活は守られることになる。
普通の主婦から戦う母になった私。でも、子供たちの未来のためなら、この変化も受け入れるしかない。
深夜の恐怖
婚姻費用の調停が終わってから半月が経っていた。長年の不安だった金銭問題にようやく区切りがつき、私の心にも少しずつ平穏が戻りつつあった。
東京に進学した悠人からも連絡が増え、方言をからかわれて困っているという他愛もない話を聞くようになった。母として、そんな日常的な悩みを打ち明けてくれることが嬉しかった。
ただ、気がかりなことが一つあった。夫の不倫相手・沙織が真っ赤なクラウンで我が家の前を頻繁に通るようになったのだ。調停後、その頻度は更に増していた。明らかな威嚇行為としか思えなかった。
そんなある深夜2時のこと。眠れずに安定剤を飲もうとキッチンに降りた私は、不気味な出来事に 遭遇した。
月明かりだけが差し込む暗い室内で、突然青白い光が窓を照らし始めた。そして、砂利を踏む足音。誰かが家の周りを歩き回り、様々な角度から懐中電灯で室内を覗き込もうとしているようだった。
私は恐怖で体が硬直し、その場に屈みこんだまま動けなくなった。2、3分という短い時間が、永遠のように感じられた。
気配が消えた後、恐る恐る外を確認したが、そこには人影はなく、ただ公園の街灯だけが寂しく光っていた。
これまでは不倫した夫への恐怖だけだったが、この夜を境に、新たな恐怖が私の生活に忍び寄ることになる??。
消えた工具箱の謎
深夜の不審な出来事から一夜明け、私は早朝に家の周りを確認した。幸い、敷地内に不審な形跡は 見当たらなかった。
念のため警察に相談したものの、近所の目を考えて、パトロールだけをお願いした。若い警官は理解を示してくれ、公園周辺の見回りを約束してくれた。
その日の夕食時、子供たちには近所で不審者が目撃されているという形で注意を促した。必要以上に不安にさせたくなかったからだ。
ところが、その時健二が思いがけない話を切り出した。
「車庫の工具箱がないんだけど」
私は一瞬、血の気が引いた。車庫の鍵は私と夫しか持っていない。シャッターの開閉音も聞いていない。それなのに、あの大きな工具箱が消えているというのだ。
「探してみるわ」
表面的には平静を装ったが、頭の中は混乱していた。夫が密かに出入りしているのだろうか?でも、それはありえない。私はほとんど家にいるのだから。
しかし、工具箱が消えた理由は見つからないまま、その夜は過ぎていった。この出来事の真相が明らかになるまでには、まだ時間がかかることになる。
そして私は、この些細な出来事が、想像もしなかった事態へと発展していくことを、まだ知る由もなかった。
予想外の来客
不審者騒ぎから半月が経ち、日常が戻りつつあったある平日の午後、思いがけない来客があった。
玄関のモニターに映っていたのは、夫・俊太郎の叔父だった。年に数回顔を合わせる程度の間柄で、個人的な付き合いは皆無。その人物が突然訪ねてきた理由が分からず、私は戸惑った。
義父母に裏切られた経験から、夫の親族との接触には警戒心があった。しかし、叔父の威圧的な雰囲気に押され、結局応対することになった。
「美咲さん、俊太郎とは絶対に別れないでほしい」
予想に反した叔父の言葉に、私は耳を疑った。そして、その理由を聞いて更に驚くことになる。
先日行われた浅井家の本家の白寿のお祝いの席で、俊太郎が沙織を同伴して現れたというのだ。 離婚も成立していない状況で、不倫相手を親族の重要な集まりに連れて行くという常識外れの行動に、親族一同が愕然としたという。
叔父は沙織の様子を詳しく語った。派手な化粧に不相応な服装、周りへの気遣いもない傍若無人な 態度。親族の誰もが呆れ返ったという。
「浅井家の嫁は美咲さんしかいない」
叔父の言葉は続いていった。私はその真意を測りかねながら、黙って話に耳を傾けた。
土下座する叔父
叔父の話は、さらに衝撃的な展開を見せた。
「白寿のお祝いの席で、俊太郎は唯一の手ぶら参加だった。それだけではない。頼まれていたスピーチも支離滅裂で、世界情勢について意味不明な話を延々と続け、最後は強制的に打ち切られる始末だった」
私は夫の様子があまりにも変わり果てていることに愕然とした。
そして、叔父は続けた。「私は我慢できなくなって、その場で沙織に向かって『お前の座るべき席ではない』と言い放った。二人とも慌てて退席していったよ」
その後、親族一同で話し合いが持たれたという。全員が沙織という女性の危険性を感じ取ったそうだ。
そこで、思いもよらぬ展開が起きた。
威厳のある叔父が突然床に頭を付け、私に懇願し始めたのだ。
「美咲さん、どうか離婚だけはしないでください。あの女に浅井家を乗っ取られてしまう。特に、 父が亡くなった後が心配です」
かつての私なら、この懇願に応えようとしただろう。しかし今は違う。夫への未練が消えたように、私にも戻る気持ちはない。
それでも、このように頭を下げる叔父の真摯な思いに、はっきりとした拒否の言葉は出せなかった。「考えておきます」と曖昧な返事をするのが精一杯だった。
家族の人生を大きく狂わせ、このような事態を引き起こした沙織とは、一体どんな女性なのか。会いたくはないが、知りたい気持ちも確かにあった。
心の傷跡
息子の進学も決まり、婚姻費用の問題も解決し、ようやく平穏な日々が訪れると思った矢先だった。叔父の訪問は、私の心に新たな傷を刻むことになった。
一年九ヶ月の月日が流れても、夫の言動は私の心を引き裂き続ける。それは愛情が残っているからではない。かつて家族として過ごした人間からここまで冷酷に扱われることへの、深い悲しみだった。
そんな叔父の訪問の翌日、今度は叔母が訪ねてきた。
叔母との関係は良好で、浅井家の嫁という立場を共有し、義父への不満を語り合える間柄だった。
叔母は驚くべき事実を明かした。夫が親戚に向かって、私が家事を放棄し、家をゴミ屋敷同然にしていると嘘を広めていたのだ。不倫を正当化するための卑劣な手段だった。
さらに叔母は、白寿のお祝いの席での出来事を詳しく語った。沙織という女性の第一印象について、親戚全員が危機感を抱いたという。
そして叔母までもが土下座をして懇願した。「浅井家を守るため」という理由で。
しかし、これほどまでに傷つけられた私に、なぜ浅井家を守る義務があるのだろうか。
私はただ「考えます」と曖昧な返事をするしかなかった。夫の嘘と、親族の懇願。複雑な思いが私の心を掻き乱していた。
離婚訴訟の始まり
人生の大きな転機は、夫が45歳で義父の設計事務所を継いだ時から始まった。
20年間デスクワーク中心だった夫は、突然外の世界に触れ始めた。そして、その華やかな世界で出会った年上の女性と恋に落ちた。
恋に落ちることは仕方ない。しかし、夫は家族との話し合いも無く、突然家を出て女性の元へ走った。それから1年9ヶ月、私への執拗なモラハラ、パワハラが続いた。
離婚調停は不成立。婚姻費用の減額調停も不調に終わった。
そして今日、予想通りの展開が訪れた。夫からの離婚訴訟だ。
驚いたのは訴状の内容だった。
「被告は家事を怠り、家をゴミ屋敷同然にした」「洗濯物は畳まず放置」「生ゴミを車庫に放置」…。
不倫の事実には一切触れず、まるで私が悪妻であったかのような一方的な主張ばかり。
しかし、この嘘の主張は簡単に覆せる。頻繁に訪れていたママ友たちが証言してくれるはずだ。 夫の不倫も、複数の目撃者と録音データがある。
これが本当の戦いの始まり。私は決意を新たにした。
真実を明らかにし、正義を勝ち取るための闘いが、今始まろうとしていた。
失われた愛の記憶
不倫の疑いが芽生えた時、必死に否定したくなった。確信に変わった時も、まだ諦めきれなかった。夫からのパワハラに耐えられたのも、いつか元の関係に戻れると信じていたからだ。
24年間、私は夫だけを愛してきた。夫以外の人と生きる未来など、想像すらできなかった。
しかし、2度の調停を経て、裁判所で悪妻に仕立て上げられ、生活費まで削られそうになり、愛情は恐怖に変わっていった。
ある日、夫の残していった机の整理を始めた。夫の痕跡を消したくて、書類や文具を次々とゴミ袋に詰めていく。そして見つけたDVDケース。「思い出」と書かれたそれには、私たち家族の幸せな日々が記録されていた。
赤ちゃんだった子供たち、家族での外出、日常の何気ない瞬間…。どの写真にも、確かな愛情が映し出されていた。写真の中の5人は、いつも笑顔だった。
最後に見つけた桜色のDVDには、大学時代からの私の写真が保存されていた。
涙が止まらなかった。これが偽りのない証拠だった。私たち家族には、確かに愛し合っていた時期があったのだと。
その事実が、今の現実をより一層辛いものにしていた>
第三の矢
雨の降る木曜日、私は重い足取りで佐藤法律事務所のドアを開けた。手には昨日届いた離婚訴状が入った封筒を握りしめている。
三人の子供たちの父である俊太郎は、もう別の女性・沙織と新しい家庭を築き始めていた。私との 離婚調停は決裂し、今度は裁判所からの一通の封筒が私の人生を大きく揺るがすことになった。
「美咲さん」佐藤先生は静かに言った。「まずは落ち着いて状況を整理しましょう」
私は涙を拭いながら頷いた。かつての夫が、こうまで冷酷になれるものなのかと思うと、胸が締め付けられる。
「実は、この裁判には重要なポイントがあります」と佐藤先生。「俊太郎さんの不貞行為が立証できれば、離婚請求は認められない可能性が高いんです」
「でも、それは一時的なものですよね?」私は不安げに尋ねた。
「ええ。別居期間が5年を超えると状況は変わります。現在1年9ヶ月ですから、約3年3ヶ月の猶予があります」
「その間に何をすれば…」
「新しい人生の準備期間だと考えましょう。住居、仕事、資格取得など、やるべきことは山積みです」
街では誰もが知っている。俊太郎と沙織が高級クラブで密会を重ねていること。まるで
夫婦のように街を歩く姿を。複数の証人がいるにもかかわらず、俊太郎は不貞行為を認めるだろうか。
答弁書の準備を進めながら、私は深いため息をついた。これが新しい人生の始まりなのだと、自分に言い聞かせた。
第一回離婚訴訟
家庭裁判所に提出された答弁書には、簡潔な文面が並んでいた。浅井美咲、原告の請求棄却を求める?。理由は、原告である夫・俊太郎の不貞行為。
裁判所の冷たい蛍光灯の下、私は静かに考えを巡らせていた。佐藤弁護士の説明によれば、夫の不貞行為が認められれば、今回の離婚請求は却下される。少なくとも3年3ヶ月は時間を稼げる。
証拠は十分にある。沙織の家に移り住んだ夫。私が沙織の家族と直接対面した際の記録。県議会議員まで同席した話し合いの音声データ。これだけの証拠があれば、さすがに不貞行為を否定することはできないはず。
しかし、この数日間、私の心に新しい考えが芽生えていた。
「先生」待合室で佐藤弁護士に向かって切り出した。「私、もう夫を自由にしてあげたいんです」
疲れ切った表情で続ける。「ただし、不貞行為を認め、子供たちの進学費用と最低限の財産分与を保証してくれることが条件です」
佐藤弁護士は静かに頷いた。「美咲さんがそう決められたのなら、その方向で進めましょう」
これが私らしい選択なのだと思う。争いは私の本質ではない。新しい人生に向かって、すっきりとした気持ちで歩み出したい。
肩の力が抜け、心が晴れていくのを感じた。これが、私なりの決着のつけ方?。
「もういい」
その言葉が心の中でこだまする。長い葛藤の末に辿り着いた結論だった。
人を愛するということは、時として理不尽で、理屈では説明できないものかもしれない。俊太郎が 沙織に心を奪われたように。それは非難すべきことなのか、それとも人間の宿命なのか。
私は窓の外を見つめながら考えた。誰かを愛することを止められないように、誰かを愛さなくなることも止められない。それが残酷な真実なのかもしれない。
ただ、最低限の誠意は必要だ。子供たちの未来のために。
そんな思いを抱きながら、裁判所の準備室に足を踏み入れた。厳かな雰囲気の中、裁判官は淡々と 手続きの説明を始める。両脇には無表情な書記官。向かい側には俊太郎と彼の弁護士の姿。
佐藤弁護士の存在が心強い中、私は不思議な感覚に襲われた。この見知らぬ人々の前で、十数年の 結婚生活の終わりが決められようとしている。
人生の岐路に立つ瞬間。それは冷たく、事務的で、でも確かな現実として目の前にあった。
これが司法の場なのだと、私は静かに受け入れた。
法廷の空気が張り詰める。
「被告人である美咲さんとの離婚を希望されるということですね」
裁判官の声が響く。
「はい」
俊太郎の返答は簡潔だった。
そこから始まった俊太郎の証言は、まるで創作小説のようだった。生ごみが散乱する家。耐えられない悪臭。同窓会の夜に決意した突然の別居。設計事務所と実家を転々とする生活。
私は黙って聞いていた。沙織の家に停まる彼の車を何度も目撃していたというのに。
さらに追い打ちをかけるように、子供たちへの言及が始まった。
「子供たちのことは考えました。私への愛着が薄いので、妻に親権を譲りたいと思います」
心の中で苦笑する。別居後、一度も連絡をよこさなかった父親の言葉とは思えない。
嘘の上塗りされた証言を聞きながら、めまいがしてきた。この場所から逃げ出したい。この虚構の物語から解放されたい。
「では、美咲さんにお聞きします」
裁判官が私に向き直ったその時、佐藤弁護士が立ち上がった。
法廷の静寂が重く垂れ込める。
「被告の美咲さん、ご意見をお聞かせください」
裁判官の声が響く中、私は言葉を失っていた。
その時、佐藤弁護士が毅然とした態度で立ち上がった。
「当方は原告の請求を完全に否認いたします」
「理由は?」
「原告には不貞行為があります。訴状の内容は事実無根です」
法廷の空気が一変する。
私も勇気を振り絞って口を開いた。「夫は3年前に義父の設計事務所を継いでから変わりました。高級クラブへの出入りが増え、そこから不倫が始まったのです」
「絶対にそんな事実はない!」
俊太郎の声が法廷に響き渡る。
その瞬間、私の中の何かが覚醒した。彼の嘘と欺瞞。そして、私への侮蔑的な態度。
もはや黙っているわけにはいかない。
裁判官は双方の主張の隔たりの大きさに眉をひそめた。
本来なら、今日で決着をつけるつもりだった。俊太郎が不貞を認めさえすれば。でも、
彼は150万円もの慰謝料を私に要求し、自分の非を一切認めようとしない。
「次回までに双方、準備書面の提出を」
裁判官の言葉で初回の期日は終わった。
これは逃げ場のない戦いになる。でも、もう後には引けない。子供たちのためにも、
私は真実を守り抜かなければならない。
覗かれた午後 ~義父の執着~
夏の日差しが差し込む午後のリビング。洗濯物を畳んでいた私は、疲れからうたた寝をしていた。離婚裁判の重圧に押しつぶされそうな日々。早く全てから逃げ出したい―そんな思いが心を蝕んでいた。
突然の違和感で目が覚めた。
レースのカーテンが風に揺れる窓際に、異様な気配を感じる。立ち上がって窓の外を見ると、マサキの生垣の向こうに人影が。
「誰ですか!」
私の声に動揺したのか、影が動いた。そこに現れたのは、にやりと笑う義父の顔。
「たまたま通りかかっただけだ」
その言葉に虚偽を感じる。1.5メートルの塀の外から、わざわざ枝をかき分けて覗き込むような場所なのに。
「警察を呼びます」
私の言葉に、義父の態度が一変した。
「お前たち夫婦の離婚に、俺は一切関係ない。巻き込むんじゃないぞ」
脅すような口調で放った言葉は、これで3度目。
義父が去った後、私は凍りついた。あの場所―婚姻費用の調停後、深夜に何者かにライトを向けられた、まさにあの場所だった。
まさか、あの時も…?
この時はまだ気づいていなかった。義父が私をここまで警戒する理由を。そして、彼が私をこの世で最も恐れている事実を。
法廷の真実 ~冷たい視線の裏側~
期日通り提出されるべき準備書面が、いまだ届かない。
二回目の離婚裁判を前に、私は佐藤弁護士と相手方待合室で待機していた。
「普通なら一週間前には届くはずなんですが…」
佐藤弁護士の言葉に、私は不安を覚えた。
「意図的な可能性もあります」と弁護士は続けた。「準備書面を直前まで出さないことで、反論の 時間を与えないという作戦です」
開廷10分前、ようやく届いた書面には予想通りの内容。夫は依然として不貞行為を否定し、離婚の 原因は私の家事怠慢だと主張していた。
法廷での夫の発言は更に驚くべきものだった。
「20年間、自分が家事のほとんどを担当してきた」
米のとぎ方すら知らない人間が、よくもそんな嘘を。
しかし、私を更に不安にさせたのは裁判官の態度だった。鋭い眼差しで私を見つめ、説明しようとする度に遮られる。
後に佐藤弁護士は私に説明してくれた。
「裁判官は真実を見抜こうと必死なんです。嘘をつく人も多いですから」
それでも私の不安は消えなかった。
調停委員の無関心な態度、裁判官の冷徹な視線。
この場で、本当に私たち家族の未来を決めていいのだろうか。
その疑問は、これからの裁判を通じて、徐々に答えを見つけることになる。
侵入者の影 ~消えた礼服の謎~
裁判所を後にした私は、周囲を警戒しながら急いで車に乗り込んだ。夫への恐怖、女性関係者への 不安、そして義父への恐れ。全てから逃れるように家路を急いだ。
疲れた体を引きずって帰宅すると、蒸し暑い室内に閉じ込められた空気が私を迎えた。
窓を開け、ようやく一息つこうとした時、違和感に気づいた。
クローゼットのドアが半開きになっている。
確かに出かける前、きちんと閉めたはず。姿見で最後の身だしなみを整えたことまで覚えている。
そして、もっと衝撃的な発見が―夫の礼服が消えていた。
家中の施錠を確認したが、どの鍵も異常はない。つまり、鍵を持っている人物が入ったということ。しかも、私が裁判所にいる時間を狙って。
思い当たる人物は一人。
夫に頼まれ、近所の目も気にならない人物。
そう、あの人しかいない。
健二が言っていた工具箱の件も、きっと同じ犯人。全ては繋がっていた。
しかし、決定的な証拠は何一つない。
私の家に、誰かが確実に侵入していることだけが、恐ろしい事実として突きつけられていた。
追い詰められる心 ~静かな恐怖の日々~
佐藤弁護士事務所での打ち合わせ。
消えた礼服の謎について、私は不安を吐露した。
「泥棒なら、なぜ礼服だけを?」
佐藤弁護士の言葉に、私も同意する。
明らかに意図的な侵入だった。
車庫の工具箱、窓越しの視線、そして今回の礼服。
全ては義父の仕業だと確信していた。
だが、それを証明する手立ては何一つない。
鍵は取り替えたものの、私の不安は日に日に増していく。
沙織の真っ赤なクラウンが家の前を通るたび、
義父の視線を感じるたび、
夫の厚顔無恥な態度を見るたび。
食事も喉を通らず、
眠れない夜が続き、
安定剤が私の日常となっていった。
何かがおかしい。
私の心が、少しずつ歪んでいく。
真綿で首を絞めるような、緩やかな精神的拷問。
この時はまだ気づいていなかった。
これが、私を深い闇へと誘う序章に過ぎないことを。
離婚裁判の攻防 ~証拠と心の重み~
佐藤法律事務所での打ち合わせ。私は椅子に深く腰掛けながら、次回の裁判についての説明を聞いていた。
「不貞行為の立証には決定的な証拠が必要です」と佐藤弁護士は静かに切り出した。
「ホテルへの出入り、女性宅への訪問、一緒に過ごした夜の証拠写真など、そういったものが理想的なんですが…」
私は手元の資料を見つめながら、自分の持っている証拠の脆弱さを痛感していた。録音データはあるものの、それは私にとってあまりにも辛い記憶が詰まったものだった。
沙織の家族や義父たちに囲まれ、3時間にわたって精神的に追い詰められた時の録音。それを法廷で再生することは、私自身の傷を更に深くすることになるだろう。
佐藤弁護士はそんな私の心情を察したのか、「録音の存在を示唆するだけにしましょう」と提案してくれた。
夫が不貞を認めさえすれば、この苦しい戦いにも終止符が打てる。しかし、そう簡単には進まない ことも分かっていた。
疲れ切った心と体で、私はただ早期解決を願うばかりだった。これ以上、この消耗戦を続ける余力が残っているとは思えなかった。
帰省 ~家族の絆~
真夏の陽射しが差し込む我が家に、久しぶりの活気が戻ってきた。
大学生になって東京で一人暮らしを始めた長男・悠人が、4ヶ月ぶりに帰省する日だった。GWには仕事で帰れなかった分、今回のお盆休みは特別な意味を持っていた。
台所からは私の作る悠人の大好物の匂いが漂い、リビングでは健二が対戦用のゲームソフトを選び、美穂は既に掃除の終わった兄の部屋を念入りにチェックしている。それぞれが、兄の帰りを心待ちにしている様子が手に取るように分かった。
チャイムが鳴り、玄関を開けると、そこには都会の空気を纏った悠人の姿があった。
「ただいま!」
その一言で、家族全員の顔がパッと明るくなる。
久しぶりの団欒。笑い声が絶えない。この光景こそが、私の生きる原動力だった。
子どもたちの笑顔を見ていると、母親として強く思うことがある。「この幸せを守り抜く」という決意だ。
テレビで見た「子どものために命を懸けられますか」というアンケート。私の答えは迷いなく 「はい」だ。もちろん、命を懸けるという表現は大げさかもしれない。でも、この子たちの幸せの ためなら、どんな困難でも乗り越えていく覚悟はある。
これから始まる3日間。この大切な時間を、家族と共に心ゆくまで過ごそう。
『真実の夜 ~スイカと告白~』
夏祭りから帰った夜のこと。家族でスイカを囲んでいた時、思いがけない会話が始まった。
「お母さん、もう話してもいい?」
美穂の唐突な言葉に、私は一瞬固まった。
それは2年半前、中学2年生だった美穂が偶然見つけてしまった秘密の告白だった。私の枕の下に隠していた夫の不倫についての記録。美穂はそれを一人で抱え込んでいたのだ。
「私、もう大丈夫。笑って話せるくらいになったから」
美穂の言葉に、悠人と健二は驚きの表情を浮かべた。
私は覚悟を決めた。もう隠す必要はない。子どもたちは真実を受け止められる年齢になっている。
話し始めると、予想外の反応が返ってきた。
「最低だな」
「出て行ってくれて良かった」
子どもたちは意外にも冷静に、時には怒りを込めて父親の行動を非難した。
特に悠人は、自分の進学費用をめぐる争いがあったことを知り、当時知らされなかったことへの感謝を口にした。
表面上は笑いで締めくくられた会話。でも、私は食器を洗いながら静かに涙を流した。
子どもたちの心の傷を思うと、胸が締め付けられた。
特に美穂の2年半の重荷を思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。でも、この夜を境に、家族の絆は新しい段階に入ったような気がした。
『法廷の朝 ~決着の時~』
静かな裁判所の廊下に、私の足音だけが響く。今日で3度目の離婚裁判。これが最後になることを 願いながら、相手方待合室で時を待っていた。
弁護士と確認した準備書面には、夫の不貞の証拠が克明に記されている。同居の事実、
住民票の移動、そして相手の家族との話し合いの記録まで。これほどの証拠を前にしても、夫は頑なに不貞を認めようとしない。
その理由は単純明快。慰謝料支払いを避けたいだけなのだ。
2週間前に準備書面を受け取っているはずの夫側が、今日どんな反応を示すのか。これまでのように否認を続けるのか、それとも事実を認めるのか。その答えがまもなく明らかになる。
私の心は既に決まっている。法に則った最低限の保証さえあれば、すぐにでも離婚に応じるつもりだ。それが私の精一杯の譲歩である。
その後は、彼と新しい相手で新しい人生を歩めばいい。かつて私のいた設計事務所で、二人で頑張ればいい。いずれ訪れる義父母の介護も、二人で担えばいい。
私が排除された理由を考えても仕方がない。人は誰でも完璧ではない。私にも気付かぬ非があったのかもしれない。
今は前を向くしかない。ただ法的な決着をつけ、互いの人生を歩み始めることだけを願っている。
書記官に呼ばれ、私は立ち上がった。決着の時が来たのだ。
『法廷の嘘』
裁判官が入室してきた瞬間、法廷内に緊張が走る。
今日の焦点は、夫の不貞行為の時期だった。別居の前か後か。たった数カ月の違いが、これからの人生を大きく左右する。
「原告側、不貞行為について説明してください」
裁判官の声が響く。
予想もしなかった展開が待っていた。
「別居後に知り合った女性と交際を始めました」
夫側の弁護士の発言に、私は耳を疑った。
明らかな嘘。所長就任後から始まった不倫。それを認めて謝罪した夫。そして突然の別居。全ては記録として残っているはずなのに。
「証拠はありますか?」
夫の挑発的な言葉に、私は言葉を失った。
確かに、決定的な証拠は持っていない。全ては状況証拠の積み重ねだった。
法廷では、別居後の不倫は実質的に容認される。慰謝料請求もできない。夫はそこを狙っていた。
「被告の主張は却下します」
佐藤弁護士の冷静な声。
この日の裁判は、私にとって完全な敗北で終わった。最悪の場合、逆に私が慰謝料を請求される可能性すらある。
真実が通らない法廷で、私は深い絶望を感じていた。子どもたちのことを思うと、胸が締め付けられる。
お金のためか、新しい女性のためか。夫の嘘は、家族の未来さえも壊そうとしていた。
『証拠なき攻防』
月日は流れ、4回目の離婚裁判。夫側から提出された準備書面は、まるで日常生活の些細な不満を 集めた愚痴日記のようだった。
「ビールの買い物に付き合わされた」「病児の送迎を強要された」「洗濯物がソファに放置されていた」「生ゴミが散らかっていた」
どれも夫婦生活における些末な出来事を、悪意を持って歪曲したものばかり。現実は全く異なっていた。私も正社員として働きながら、家事と育児をこなしていた。夫自身も同居人として、家事を分担できたはずなのに。
さらに1ヶ月後、5回目の裁判。今度は私側からの準備書面を提出したものの、決定的な不倫の証拠は示せなかった。状況証拠の積み重ねに留まってしまう。
夫側は巧妙に反論をかわし、最後には決まって「証拠を出してください」と言い放つ。
この言葉の前では、どんなに多くの目撃証言があっても、町中の噂があっても、全てが無力となる。
裁判所が求めるのは、明確な証拠。言葉だけでは通用しない場所なのだ。
二度の裁判を経ても、事態は夫に有利なまま。私の焦りだけが募っていく。法廷という場所で、真実を証明することの難しさを痛感させられた日々だった。
『探偵の忠告』
裁判は思わぬ方向へ進んでいた。
夫の不倫は周知の事実。会社の同僚も、親戚も、取引先までもが知っている事実。それなのに、法廷では全てが絵空事のように扱われる。
追い詰められた私は、スマートフォンで離婚に関する情報を漁っていた。そこで目に留まったのは、東京の探偵事務所の広告。「10分無料相談」の文字に、藁にもすがる思いで電話をかけた。
最初に出た若い女性から、中年の男性に代わる。声からは独特の世慣れた雰囲気が伝わってきた。
「奥さん、裁判は戦場ですよ」
その一言で、私の甘さが露呈した。
「弁護士や裁判所が何とかしてくれる?そんな考えは捨てなさい。戦うのはあなた自身です」
探偵は容赦なく続けた。
「被害者面してても何も変わりません。相手が嫌がることを、法に触れない範囲でやるんです。向こうだってそうでしょう?」
その言葉に、私は衝撃を受けた。確かに、今まで私は「正しいこと」だけを考えて生きてきた。 でも、それは相手が誠実な人間の場合だけ通用する方法だった。
「目には目を」という探偵の最後の言葉が、深く心に刺さった。
守りの姿勢から、攻めの姿勢へ。
たった10分の会話が、私の考え方を大きく変えることになった。
これまでの受け身の態度を改め、積極的に行動を起こす時が来たのかもしれない。
『転換点』
佐藤弁護士の事務所で、私は思いがけない提案を受けていた。
「道光会のメンバーに会ってきてほしいんです」
その言葉に、私は戸惑いを隠せなかった。道光会――夫が所属する著名な経営者たちの会。夫が必死になって入会を果たした、いわばエリート社長たちの集まりだ。
「でも、私なんかが突然…」
躊躇する私に、佐藤弁護士は静かに、しかし力強く語りかけた。
「今までは受け身でした。でも、これからは違います。美咲さんから動くんです」
その提案の真意が少しずつ見えてきた。夫が最も大切にしている人脈に、私が直接働きかける。それは夫にとって、最も望まない展開になるはずだ。
「ただ真実を話すだけでいいんです。お子さんたちのこと、これまでの苦労を」
私の中で、数日前に電話で話した探偵の言葉が蘇った。
「相手の嫌がることをする」
まさに今、佐藤弁護士が提案していることは、その具現化だったのかもしれない。
確かに怖い。大企業の経営者たちに、見ず知らずの私が会いに行くなんて。拒絶されるかもしれないし、侮辱されるかもしれない。
でも、このままじゃいけない。子供たちの未来のために、私は動かなければならない。
「わかりました。やってみます」
私の決意に、佐藤弁護士は満足げに頷いた。これが転機になるかもしれない。少なくとも、ただ耐えるだけの日々からは、確実に一歩を踏み出すことになる。
子供たちの未来を守るため、私は新たな戦いに向かうことを決意した。
探偵と弁護士の言葉が、私の中で重なり合った。
「受け身では勝てない」
「自分から行動を起こせ」
「相手の嫌がることをためらうな」
かつての私なら、こんな助言に眉をひそめただろう。人を傷つけることなど考えられなかった。でも今は違う。
離婚裁判は、想像以上に過酷な戦場だった。善意や正義だけでは何も変わらない。むしろ、そんな考えが自分と子供たちを追い詰めることになる。
「子供たちの未来のために、私は変わらなければならない」
そう心に誓いながら、パソコンの画面に向かった。村尾建設のホームページが開く。豪華なオフィスビル、格調高いロビー、そして最上階の社長室。
画面に映る村尾社長の笑顔。あの日、夫の不倫を告げた時と同じ余裕に満ちた表情。
深く息を吸い込んで、私は電話番号に指を伸ばした。これが新たな一歩になる。もう後戻りはできない。
子供たちを守るため、私は今までの自分を超えていく必要があった。それが母親としての責任なのだと、強く心に刻みながら。
『予想外の展開』
「村尾建設です」
受付の声に、私は一瞬躊躇した。練習していた言葉が、急に喉から出てこなくなる。
「あの、社長にお話がございまして…浅井設計事務所の浅井美咲と申します」
保留音が流れる間、私は自分の鼓動を感じていた。断られるだろう、そう思っていた。
だって、この男は夫の不倫を笑いものにした人物なのだ。
しかし――
「明日の午後2時」
突然の返事に、私は耳を疑った。
「え?本当によろしいのでしょうか」
「2時。会社で待ってる」
そっけない返事。でも、確かな約束。
電話を切った後、私は不思議な感覚に襲われた。なぜこんなにもあっさりと?質問も確認も一切なく。まるで、私からの連絡を待っていたかのような対応。
でも考えている時間はない。明日、私は村尾建設に向かう。大企業の社長室で、何が待ち受けているのかわからない。
ただ一つ確かなことは、これが子供たちの未来のための一歩だということ。
私の心の中で、不安と決意が交錯していた。
『予期せぬ展開』
私は久しぶりに身なりを整えた。白のブラウスにベージュのパンツ、黒のジャケット。髪は丁寧に後ろで束ね、化粧も念入りにした。
ビジネス街は活気に満ちていた。スーツ姿の人々が行き交う中、私は少し立ち止まる。
かつての自分もこんな風景の一部だったことを思い出した。
村尾建設は、街の中心に聳え立つ巨大なビルだった。夫が同じ2代目経営者という理由だけで、 この規模の会社の社長と対等だと思い込んでいたことが、今では滑稽に思える。
緊張しながら社長室に通された私を待っていたのは、40代の小柄な男性だった。予想していたよりもずっと普通の印象の人物。
私は涙を堪えながら、すべてを話した。夫の不倫、子供たちの苦しみ、経済的な困窮。そして裁判での夫の卑劣な嘘。
「聞いていたのとは随分違うな」
村尾社長の言葉に、私は息を呑んだ。
そして突然の展開。〇〇〇グループの会長が私に会いたいという。
私には理解できなかった。なぜ、そんな大物が私のような者に会いたがるのか。
帰り道、私の頭の中は混乱していた。これは私たち家族にとって、どんな意味を持つのだろうか。
『魂の告白』
道光会。夫にとっては憧れの頂点だった場所で、今、私は派閥のトップに会おうとしている。
皮肉なものだ。夫は若手の使い走り程度の立場なのに、その妻である私が、グループの頂点に立つ人物と面会する。不倫で裏切られた妻が。
本当は私だって行きたくない。でも、探偵と佐藤弁護士の言葉が背中を押す。
「できることをやれ」「相手の嫌がることで追い詰めろ」
〇〇〇グループの本社。威厳のある会長室に通された私を待っていたのは、70代後半の
厳めしい表情の男性だった。
私は震える声を抑えながら、すべてを話した。夫の裏切り、子供たちの苦しみ、不当な
解雇、財産の持ち逃げ。そして何より、夫が不倫の事実を認めようとしない卑劣さを。
「私のことはいいんです。でも子供たちは…」
気がつけば、私の頬を涙が伝っていた。これは演技でも、誰かに言われた台詞でもない。ただ、 母親としての魂からの叫びだった。
会長の表情が、わずかに変化するのが見えた。
『意外な真実』
「実は、あなたにお会いしたかった理由があります」
会長の言葉に、私は身を乗り出した。
会長は一枚の紙を取り出した。道光会のホームページに届いた告発メールのコピーだった。夫の不貞行為や、家族への非道な仕打ちが克明に記されている。
「私ではありません」
即座に否定する私に、会長は静かに続けた。
「同様の内容のメールが、他にも来ているんです」
真相は意外なところにあった。
会長は重い口を開いた。夫が道光会に入って間もない頃、ドルチェという店で沙織という女性と出会い、周囲の会員たちが面白半分で二人の関係を煽った話。まさか本当に家庭を壊すことになるとは、誰も予想していなかったという。
「申し訳ない」
会長の謝罪の言葉に、私の目から涙が溢れた。
そして最後に、驚くべき申し出があった。
「裁判では、私の名前を出してください。必要なら証言にも立ちます」
帰り道、私は佐藤弁護士の言葉を思い出していた。
「本当のことを話せば、必ず道は開ける」
確かに、思いもよらない援軍を得ることができた。疲れ果てた私は、静かに家路についた。