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浮気旦那と離婚に至るまでの道のり(4)

不倫
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私 の 責 任

午後11時。

子供たちはもうそれぞれの部屋に入っていった。キッチンの片付けも終わり、明日の米もとぎ、お弁当の準備も整った。私は誰もいないリビングに一人で座り込む。

夕方のパートナーの言葉が頭をよぎる。「君は子供が生まれてから、僕が一番じゃなくなった」

この20年間、そんな風に思っていたとは全く思いもしなかった。彼をそう感じさせるほど大切にしていなかったわけではないと思っている。

子供は夫婦にとっての一番で、一緒に守るものだと私は信じていた。それなのに、子供に負けたくないなんて。

彼は家事や自分の身の回りのことは何もしない人で、靴下や下着がどこにあるかも分からない。

彼がお風呂に入るときには、下着とパジャマを用意し、朝になるとその日の靴下と服を私が用意していた。

彼の髪は毎回私が切っている。床に新聞を敷き、その上に椅子を置いて、ああでもないこうでもないと言いながら私が髪を整える。この騒動が起きるまでは、それが20年続いていた。何度床屋に行ってほしいと頼んでも、彼は私に任せた。新婚当初は甘えられているようで少し嬉しかったが。

「君にとって僕は子供が生まれてから一番じゃなくなった」彼にそう言わせたのは、私の責任なのだろうか。彼を甘やかしすぎたのかもしれない。

どんなに彼が私に依存していても、その時点でしっかり話し合っていれば、こうはならなかったのではないだろうか。あんな風になったのは、きっと私のせい。私の責任。

いつかこの問題で子供が傷つくことがあるとしたら、それも私のせいだ。私の家庭がこうなったのは、全て私の責任。子供たちにはどう謝っても、謝ることはできない。

私は、自分が引き起こした問題を毎晩ベッドで考えながら苦しんでいる。

常 套 句

「はい、△△市役所です」   私はお昼休みに車の中で市役所に電話をかけた。

「弁護士の無料法律相談があると聞いたのですが…」弁護士や法律相談とは無縁の人生を送っていた私。

「はい、ございます。今月は明後日が空いていますよ」

明後日…急な話に驚いたが、この機会を逃すのは惜しい。「すみません、明後日でお願いできますか?」

無料相談なのに住所や名前、電話番号を聞かれて少し驚いたが、そんなことを気にしている場合ではない。

夫の不倫問題については、義父母と浩介さん以外には誰にも相談していなかった。

すべてを打ち明ければ楽になるのかもしれないが、子供たちに知られたらどうなるかと考えると、恐ろしくて誰にも話せなかった。親しい友達はほとんどが子供を通じてのママ友だ。電話を終え、再び夫のいる設計事務所に向かった。

離婚を切り出されたのに、よく事務所に行けるものだと言われそうだが、生活のためには給料が必要だ。夫が出て行って以来、私と子供たちは私の給料で暮らしている。

家族の通帳は夫が持って行ったため、私が事務所に通う理由がそこにある。

どんなに離婚問題で揉めていても、私は働いている限り給料をもらわなければならない。

この時、私は「婚姻費用」の存在を知らなかった。

法律相談の日がやってきた。

受付で長椅子で待つように言われ、様々な人が行き交う中、何も悪いことをしているわけではないのに、後ろめたくて下を向いていた。

庶務課の担当者が若い女性で、「こちらに記入してください」と紙と鉛筆を渡された。

住所、氏名、年齢、電話番号、家族構成。相談内容の欄には「夫の不倫」と一言だけ書いた。

その内容を確認している彼女の無表情に少し救われた。

間もなく呼ばれた部屋はとても小さかった。

「どうされましたか?」と若い男性の弁護士が尋ねる。

私は不倫から離婚届を突きつけられるまでの経緯を話した。

「それは大変でしたね」と彼が優しい言葉をかけてくれたおかげで少し緊張がほぐれた。

「でも、奥さん、一つだけ誤解がありますよ」

「誤解?なんですか?」

「離婚の理由についてです」

「夫が言った理由ですか?」

「そうです。旦那さんが言った『子供が生まれて俺が一番じゃなくなった』という理由に気を取られているようですが…」

「はい。全ての理由とは思っていませんが、それも一因だと…」

「そこです。それは不倫して離婚を望む男の常套句です」

「常套句?」

「はい。責任転嫁ですから、その言い訳を気にする必要はありません」

「でも、子供が3人いるので、夫にあまり構ってあげられなかったのは事実です」

「そんなの当然です。子供が3人もいて、家事や仕事もあるのに、完璧に夫を大事にするなんて無理ですから、それは離婚の理由にはなりません」

そうなんだ、常套句なのか…冷静に考えれば納得できる。

「不倫して離婚したい男は、離婚の理由にすると多額の慰謝料を払わなければならないので、奥さんの至らなさを理由にするんです」

「そうなんですか…」

「奥さんに落ち度があれば、自分だけが悪いわけではないと主張できるから、慰謝料も減るんです。奥さんが至らなかったから、不倫に走ったというわけです」

ひどい。そんな計算があって夫はあの言葉を言ったのか。

その時、無料法律相談が終わり、「何か困ったことがあればご連絡ください」と名刺をもらい、その部屋を後にした。

日 記

「佐藤さん、診察室にどうぞ」と促され、私はここ半年以上通っている心療内科のドアを開けた。「佐藤さん、その後はいかがですか?」静かで穏やかな声の先生が問いかける。

「先生、最近安定剤を飲んでも全然眠れなくて、気持ちも落ち着かないんです。以前は効いていたのに、薬が合わなくなったのでしょうか?」と私が言うと、「佐藤さん、それは薬が合わないのではありません」と返される。

「では、何が原因ですか?」

すると、「今の佐藤さんのストレスの量に対して、薬の分量が足りなくなっているのです。ストレスが以前より増えているということです」と説明される。

「そうなんですね…」

「だから、薬を変えるよりも量を増やしましょう」と提案された。

毎日安定剤に頼りきりで、飲むことへの罪悪感は薄れていた。飲まなければ生きていけないと思うから、子供たちのために飲んででも生き続けたいと願っている。

しかし、量を増やすと言われると、自分の病状が悪化したように感じ、気持ちが沈んだ。それでも、今の生活を維持するには安定剤が不可欠になってしまった。

それは私の心の弱さが原因だろうが、もうどうしようもない。私は先生に安定剤の量を増やしてほしいとお願いした。

診察が終わると、看護師さんによるカウンセリングが待っていた。そこは診察室の隣の部屋で、ソファや本棚、観葉植物があり、まるでリビングのような居心地の良い空間だった。私の担当は同年代の女性の看護師で、これまでの出来事をすべて話していた。今日は離婚届のことや弁護士への相談について話をした。

「ところで、佐藤さんに一つお勧めしたいことがあります」と看護師さん。「日記をつけてほしいんです」と続ける。「日記ですか…?」「そうです。旦那さんとの会話や、言われたこと、されたこと、そしてそのときの気持ちや体調も。箇条書きでも構いませんので、日付を忘れずに。それから、旦那さんが変わり始めた頃からのことも時系列で書いてみてください。」

日記をつける余裕など今の私にはなく、夫からのひどい言葉を文字にすることは苦痛だった。しかし、看護師さんが勧めるのだからやってみようと決意した。私はその日から、夫に関する出来事を詳しく日記に書くことにした。

正直、辛い経験を文字にするのは苦痛で、何度もやめようと思った。この時は半信半疑で書いた日記が、後に私の大きな支えになるとは思いもしなかった。看護師さんが日記を勧めた理由は、後になってわかることになる。

視 察 旅 行(1)

夜が明けても、どんなに心が沈んでいても朝は容赦なく訪れる。昨晩、処方された安定剤を倍量飲んでも、結局は眠れず、一人寂しく大きなベッドの中で夜を過ごした。

私たち家族は、これからどうなってしまうのだろう。苦しい気持ちを抱えながらも、朝はやってくる。起きるとすぐにキッチンへ行き、安定剤を口にする。この白い錠剤は、今日も何とか頑張るための護符だ。そんなものがない方が良いのに。

朝食とお弁当を作り、子供たちを学校に送り出すと、私は玄関に座り込んだ。薬の影響か、体がだるくて、めまいもする。忙しい朝の時間を笑顔で乗り切ることが精一杯で、そこから動けなくなった。

私は事務所に電話をかけた。「申し訳ありませんが、体調が悪くて休みます」と伝えると、夕方までベッドでうつろな状態だった。

どれくらい経ったのか、携帯の音で我に返った。夫からの電話だった。「どうして休んでるんだ?ちゃんと仕事しろよ。明日は大事な日だから、絶対に休むなよ」と言われた。

勝手に出て行き、離婚届を置いていったくせに、そんなことを言うなんて。夫が言う大事な日とは、明日からの視察旅行のことだった。私がいなければ、事務所も回らないのは分かっていた。

「わかりました、明日は必ず出勤します」と答えると、電話は切れた。夫の給料がなければ、私たちの生活は成り立たない。だから行かなくてはならない。

翌日、出社すると社員たちはすでに仕事を始めていた。いつもより早く出社しているようだった。一番古い社員の田中が焦った様子で言った。「所長が昨日、早く帰っちゃったんです。今日からの引き継ぎができてないんですけど、どうしますか?」

「何があったの?」話を聞くと、夫は昨日の仕事も終わらせないまま、急に帰ったという。書類も確認していないまま、どうやって進めるのか。「所長に連絡してみて。旅行前に出社するつもりかもしれない」と言うが、田中は「何度も電話したが、全然出ない」と

私も電話をかけてみたが、留守番電話になってしまった。今日が締切の書類もあるのに、どうすればいいのだろう。

視 察 旅 行(2)

 

午後の遅い時間、私は夫に電話をかけたが、留守番電話になってしまった。今日が期限の重要な書類もありながら、なぜ彼は出ないのか。

おそらく、新千歳空港から羽田行きの便に乗っているのだろうか。もう飛行機にいるのか、それともまだ搭乗していないのか、誰にもわからなかった。

その時、遠藤設計事務所の遠藤所長を思い出した。彼の事務所は私たちのところとは比べ物にならないほど大きく、奥様とも面識があったので、急いで電話をかけた。

「はい、遠藤設計事務所です。」

奥様の声が返ってきた。「美咲さん、お久しぶりです!お元気でしたか?」

「はい、ありがとうございます。今日は視察旅行の出発時刻をお聞きしたいのですが、夫に連絡が取りたいのです。彼の携帯が出ないんです。」

「え?視察旅行?そんなことは聞いていませんよ。主人は今隣にいます。」

遠藤所長が電話を取った。「美咲さん、どうした?視察旅行は春に延期になったはずだ。知らなかったのか?」

それは明らかな嘘だった。視察旅行は夫の嘘で、どうするつもりなのだろう。

「申し訳ありません、私の勘違いでした。」と慌てて電話を切った。

事務所の社員たちは夫の不在に疑問を持っていた。「最近、所長がよく外出しているようで、携帯も出ないし、戻りも遅い。」一人が不安を口にした。

私もどう返してよいかわからなかった。もし視察旅行が本当にないのなら、夫はどこに行っているのか。

その時、社員が共用パソコンの検索履歴を指差した。「見てください、これ。」

検索履歴には「東京 穴場 グルメ」や「恋人と泊まる宿」などの言葉が並んでいた。そして、旅行会社からの入金確認メールも見つけた。

この旅行は視察旅行ではなく、明らかに不倫旅行だった。噂が社内に広がる中、もう誰も夫の携帯に電話する者はいなかった。

三日後の夕方、夫は何食わぬ顔で事務所に戻ってきた。東京駅で買ったお菓子を手土産に、視察した建物の話を大声で語る。社員たちは彼を無視していた。

静まり返った事務所に響く夫の声。かつての真面目な夫はどこに行ってしまったのだろう。彼は一体、どこまで堕ちてしまうのだろうか。

大 晦 日(1)

夫が家を出てから、年末が近づいて二ヶ月が経とうとしていた。彼とは設計事務所で顔を合わせるが、離婚届を持ってきた日以来、彼は一度もその話をしなかった。何度か私から話を持ちかけたが、彼は応じなかった。

24年も一緒にいたのに、今では彼の考えすらわからない。義父からの電話は時々あり、内容はいつも同じだった。「お前が事務所を守れば、彼は戻ってくるから安心しろ」と。今、義父母以外に私を気にかけてくれる人はいない。励ましの言葉もない。

そんな中、気になっていたのは大晦日のことだった。今年も残り一週間。二ヶ月も家に帰っていない夫は、どこで年を越すのだろう。我が家では20年、毎年家族で年越しをするのが恒例だった。夫は平日は遅く、休日はゴルフでいない。

年越しは家族で過ごす貴重な時間だった。夫が出て行った二日後、私は子供たちに「お父さんは義父の家に泊まっている」と嘘をついた。それ以来、夫が帰ってこないことに子供たちが気にかけていないはずはない。特に年越しも帰らないとなると、疑問に思うだろう

私は夫に年越しだけは子供たちと一緒に過ごしてほしいと願っていた。受験生になる長男と長女の不安を少しでも和らげたかった。社員が手を洗っている隙に、私は夫に頼んだ。

「せめて年越しだけは家に帰ってきて。子供たちを安心させてあげて。」夫は無表情で図面を見つめていた。その返事を待たずに、社員が事務所のドアを開けた。果たして夫は大晦日、子供たちのために帰ってくれるのだろうか。彼は、子供たちの唯一の父親なのだから。

大 晦 日(2)

大晦日の件を俊太郎にお願いして一週間が過ぎた。 それ以降、俊太郎からは帰るかどうかの返事がなかった。 だが、「子供たちのために」と強調した私の言葉が彼を動かすことを願っていた。

 大晦日夕方6時過ぎ、家のガレージに車の音が聞こえた。 カーテンの隙間から外を覗くと、それは俊太郎の車だった。 帰ってきてくれたのだ。 私は俊太郎に会いたいわけではなかったが、ただ子供たちに安心を与えたかった。

 急いで玄関のドアを開ける。 「おかえりなさい」と声をかける。 これで子供たちに不安な年越しをさせずに済む。 ほっとしたのも束の間、玄関に立つ俊太郎の姿に驚いた。 おしゃれなメガネ、20代向けのダウンジャケット、真っ赤なジーンズ。 以前の俊太郎の趣味とはまったく異なる出で立ちだった。 これが沙織の趣味なのか。

 彼がこの2ヶ月でこんな格好をするようになったとは。 俊太郎は無言でリビングのソファーに座る。 彼が来ることを考慮して、料理の支度はすでに整っている。 私は二階の子供たちを呼んだ。 予め、俊太郎が来ることを知らせていた。 

二か月ぶりに家族全員が揃う食卓。父と子供たちが久しぶりに再会する。 初めは父親の変わった姿に驚き、よそよそしかった子供たちだが、すぐに元通りの会話が始まる。 子供たちは2か月も帰らなかった俊太郎をすんなり受け入れた。

 共通の話題はいつもの流行のゲームや漫画。 楽しい会話がリビングに広がり、私は料理や飲み物を出しながら、この幸せな瞬間をじっくりと噛みしめていた。 俊太郎の不倫や別居のことなど、一瞬頭から消えるひとときだった。 

子供たちの笑顔が何より嬉しかった。 久しぶりの父親に、どれほど安心しただろう。 この時間が永遠に続けばいいのに。 私がそんなことを考えていると、突如、思わぬ出来事が起こった。

大晦日(3)

この瞬間がずっと続いてほしいと思っていた矢先、夫の携帯が鳴った。彼がその音に反応してリビングを出て行くと、ドア越しに誰かと争っているような声が聞こえた。「すぐ帰るから」と、彼の小さな声が耳に残る。戻ってきた夫の表情は一変し、険しさが増していた。

「お父さん、帰らなきゃなんないんだ」と子供たちに告げる。健二は驚き、「おばあちゃん具合悪いの?」と尋ねた。彼はまだ小学6年生で、久しぶりの父親にもっと甘えたかったに違いない。「まだ行かないで!」と涙を浮かべる悠人に、夫は「忙しいんだよ!」と冷たく手を振り払った。そして、誰の顔も見ずに玄関へと向かう。

「ひどい親父!」と普段おとなしい悠人が叫ぶ。美穂が静かに泣いている。夫の車が去る音が響き、家族の楽しい時間は一瞬で消えた。健二の頭を美穂が撫で、「どうして子供まで傷つけるの?」と心の中で思う。

皆が言葉を失った後、健二が私に尋ねた。「お父さん、帰ってくるよね?」私は「もちろん、帰ってくるよ」と答えたが、心の中では嘘をついている自分を感じていた。美穂と悠人が自室に戻り、何を考えているのか、私は気になった。

健二も部屋に戻り、リビングには静寂が訪れた。テレビの紅白は華やかで、今まさに結果発表の瞬間だった。「白組勝利」との報せに金色の紙吹雪が舞う。外の世界は華やかな時を過ごしているが、私たちの家はどうだろう。夫は今、どこで誰と過ごしているのだろうか。

蒼色の月(1)

二月の凍てつく寒さ。北海道の街は連日氷点下、木々も建物もすべてが凍りついて、生気を失ったように見える。街を行く人々は皆急ぎ足で、色彩は氷の下に埋もれ、そこにはモノクロの世界が広がっていた。

外の世界が本当にそうなのか、今の私の心のフィルターを通して見えているのかはわからない。とにかく、北海道に住んで20年、これほど冬が暗く冷たく感じたことはなかった。

今夜も激しい吹雪が襲ってきた。子供たちはいつものように学校から帰り、夕食を済ませてリビングでそれぞれくつろいでいる。「ねえ、みんな。今年もみんなで札幌の雪祭りに行こうよ!雪祭りを楽しんで、美味しいものを食べたいな」と私は声を弾ませる。

「行ってもいいけど、お父さんは今年も行かないよね…」年越しの出来事以来、健二は父親のことをよく口にする。少しでも私から父親について知りたいのだろう。

大晦日の日、「お父さんが変だったのは年末の仕事でミスをしたから、イライラしていたんだ」と私は子供たちに嘘をついた。しかし、あの夫の姿を見て、子供たちが不安でないわけがない。

「どうかな。それはお父さんに聞かないとわからないけど、私が誘ってみるよ。もしお父さんがダメでも、4人で行けばいいよね」「お母さん、お父さんどうしちゃったの?いつも一緒に行ってたじゃない。僕はお父さんと一緒じゃなきゃいやだよ」と健二。

健二はきっと父親をこの家に戻したいのだろう。「明日、事務所でお父さんに頼んでみるから、みんなで行けるようにね」「いやだ!今すぐお父さんに電話してみてよ!」電話をかけても、夫は出ないだろう。突然始まった父がいない生活に、小学6年生の健二は不安を爆発させた。「お母さん!早くお父さんに聞いてよ!」と焦る健二。「健二!わがまま言わないの!お父さんなんてもうどうでもいいんだから!」と美穂が声を荒げる。「お姉ちゃんはうるさいよ!僕はお父さんと行きたいんだ!お姉ちゃんはバカだ!」と健二。

「私なんかいらないっていうの?健二、私のこと死んでほしいと思ってるでしょ?」美穂の言葉に私は驚く。「美穂、今なんて言ったの?そんな言葉はダメだよ!誰もそんなこと思ってない」と私が言う。

もしかしたら、夫のことが美穂に伝わってしまったのかもしれない。私は不安に駆られる。「美穂、お母さんと話そう。何かあるなら何でも言って。お願い」と私は美穂の腕を掴んで目を覗き込む。「何か怒ってるの?お父さんのこと?」私の言葉に美穂の表情が険しくなる。「私はただ健二に腹が立っただけだよ。お父さんなんて関係ない!」

「死ねばいいなんて誰も思ってないよ。そんなこと言っちゃダメだ」と私は言う。「私なんかどうなったっていいんだよ。お父さんだってそう思ってる」と美穂が返す。年越しの出来事以来、美穂は言葉使いや態度が荒くなった。

中学2年生の女の子にはよくあることかもしれないが、美穂がそんな悲しい言葉を口にした原因は私たち両親にある。突然帰らなくなった父親に違和感を感じないはずがない。

健二を乱暴に振り払う夫を見た美穂が何とも思わないわけがない。しかし、美穂はその理由を口にすることは決してない。私が困ることを彼女はわかっているからだ。私と美穂の本音を吐かない会話は平行線をたどり、解決策は見つからない。

美穂の心に積もる苛立ちが膨れ上がる。「私のことなんてほっといてよ!」美紀はリビングの窓を開けて、外に飛び出そうとする。靴も履かずに、吹雪の夜の闇へと。

蒼色の月(2)

静かな午後、雪の舞う中、美穂は外に出ようとしていた。心配でたまらず、私は彼女の腕を掴んだ。「やめて!痛いよ!」ともがく美穂が窓のサッシに指を挟んでしまった。彼女の指は急速に腫れ上がり、泣きじゃくる美穂を抱きしめながら、私は急いで携帯電話を握った。相手は実家にいる夫、俊太郎だ。

「俊太郎、美穂が指を怪我したの!すごく痛がってる!早く来て!」彼の実家は近く、すぐに来られるはずだ。「今行く」と言った俊太郎だが、なかなか姿を見せない。美穂の痛みは増し、指は赤から黒紫に変わっていく。「お母さん、美穂の指、折れてるかも!早く病院に連れて行こう!」

再度、俊太郎に電話をかけた。「まだ着かないの?美穂がすごく痛がってるの!」「酒を飲んだから、今向かってる…待って」急な呼吸音が響く。数分後、俊太郎が家に到着し、私たちはすぐに車に乗り込んだ。

病院の救急入り口で、俊太郎は美穂を抱きしめ、泣き止ませようとした。その日は急患が多く待たされながらも、幸いにも骨折はしていなかった。ロビーの長椅子に並んで座る私たち家族。安心感と共に、昔の仲良し家族の姿を思い出していた。

「お母さんの言うこと、ちゃんと聞けよ」と俊太郎が言った。彼の声には父親の威厳が戻っていた。私たちが幸せだったあの頃を思い出し、涙を堪えていた。

会計を済ませ、外に出ると雪は止み、澄んだ夜空に星と大きな月が私たちを見下ろしていた。「帰ろうか…」と俊太郎。以前のように五人で出かけた日々を思い出し、懐かしさを感じる。

その時、俊太郎が「ここで下りる」と突然言った。どこに行くのかと心の中で叫んだ。「お父さん、どこに行くの?」と健二が聞く。俊太郎は「用事があるから」とだけ言った。夜中の一時に、用事なんて。

私たちは彼を無言で見送った。俊太郎の後ろ姿が小さくなっていくのを見ながら、心の中で彼を引き留めたくなる気持ちが溢れていた。子供たちも同じように思っていたに違いない。

あの月の下、私たちが家族として一瞬でも戻れたことを知っているのは、ただ月だけだった。運命共同体として、この険しい道を共に歩むしかないのだ。私たちは家族だから。

午後3時。

事務所には私一人。すると、同僚の佐藤が近づいてきた。

「奥様、少し聞きたいことがあるんです。」

「はい、何ですか?」

「最近、所長が金曜日の午後に頻繁に外出していますが、どこに行っているんですか?所長がいないと業務が進まないんですよね。」

確かに、最近夫は金曜日になると理由をつけて事務所を出て行くことが多い。

「所長は外出後、携帯にも出ないので困っています。」

佐藤は社員の中でも信頼の厚い存在だ。最近、所長の承認が必要なのに不在でスムーズに進まないことが多かった。

「そうだね、私から伝えておくわ。」

その時、夫が事務所に現れ、営業に出かけると言った。

急にそんなことを言い出して、行き先があるとは思えなかった。

「所長、営業はどちらへ?」佐藤が尋ねる。

「今日は隣の町まで行こうと思っている。」

その言葉に佐藤の顔が曇った。しかし夫は気にせず外に出て行った。

「私が所長の後をつけましょうか?」佐藤は言ったが、私は止めた。

「今日は本当に営業かもしれないし。」そう思いながらも、夫の行動が気になる。

その後、私の携帯に友人の智子から連絡が入った。

智子「今どこにいるの?」

私「会社だよ。」

智子「旦那さんは?」

私「隣町で営業中だって。」

智子「驚かないでほしいんだけど、レストランに似た人が入っていったの。」

そのレストランは隠れ家のような場所で、密会にぴったりの場所だった。

「間違いじゃない?」

私がそう送ると、智子から夫の車の写真が届いた。

目の前が真っ暗になり、もう疲れ果てていた。

私は同僚の佐藤に写真を見せた。

「所長に電話してみましょう。」

「どうするの?」

「事情があるかもしれないし、確認しましょう。」

佐藤が夫の携帯に電話をかけた。

「所長、今どこにいますか?」

「隣町に決まってるだろ。」

「本当に隣町にいるんですか?」

「今、営業で話をしてきたところだ。」

夫がいつになく饒舌で、嘘を隠そうと必死だった。

電話を切った直後、再び智子からメッセージが届いた。

夫が女性と一緒に座っている写真が送られてきた。

「このことは他の社員には内緒にして。」

しばらくすると、夫から事務所に電話があった。

「所長はもう一件営業してから帰るので、今日は事務所に戻らないそうです…」

どんどん壊れていく夫を見つめるしかなかった。

所 長 失 格

「美咲がいなければ設計事務所は成り立たない。彼女が事務所の中心だ。お前がこの事務所を支えろ」という義父母の言葉に従い、私は今も設計事務所に通っている。夫の異常な行動によって社員たちの信頼は揺らいでおり、その言葉も無視できない事実となっていた。社員たちの中で夫に対する軽蔑の視線が増えていく。

別居から4ヶ月が経過した朝、事務所に着くと、いつもと違う雰囲気が漂っていた。通常なら仕事に取りかかる社員たちが、今日は何かを待っている様子だ。応接室を覗くと、夫と木村が話していた。

木村は義父が所長をしていた頃から30年以上この事務所で働いている重要な存在だ。「一体何が起こっているんだろう…」ガラス越しに感じる異様な緊張感に、私は不安を覚えた

「木村さんが辞めるって」と他の社員が告げる。「そんなのありえない…」辞められたら事務所は回らない。最近の夫の失態をカバーしてくれていたのは彼のおかげなのに。1時間後、木村が応接室から出てきて、私を心配そうに見つめながら頭を下げ、事務所を去っていった。遅れて出てきた夫に尋ねる。「何があったの?」

「アイツ、辞めるってよ!」夫が吐き捨てる。「どうして?ちゃんと話をしたの?」私の質問に「知らねえよ!辞めたいなら辞めりゃいいんだ!俺に逆らった奴は要らない!」と怒鳴り、ゴミ箱を蹴った。「木村さんがいなければこの事務所は回らない!」

彼はもはや常識を失っている。木村を駐車場で呼び止める。「辞める理由は何?」

「奥さん、私が今辞めたら皆に迷惑がかかるのは分かっています。しかし、これ以上所長には従えません」と木村。

「それが最近の出来事が原因なら、私が所長に伝えるから、もう一度考えてほしい!」

「そのことだけではありません。所長が不倫の噂以降変わってしまい、私たちを人として扱わなくなった。もう耐えられません。」

 

返す言葉もなく、私はただ聞くことしかできなかった。彼は所長に「ここにいる必要はない」と言われ、辞表を提出した。「奥さん、ごめんなさい。彼は所長に向いていません」

普段控えめな木村が私を見て言った。「お願いします。私が所長をどうにかするから、残ってください。」

「彼はもう変わらない。あなたがどれだけ説得しても無駄です」と木村は言った。その後、辞めるまで木村と夫の話し合いは一度もなかった。引き継ぎが終わり、彼は去って行った。事務所はどうなるのだろう。

「彼は所長失格」という言葉が頭に残り、事務所の未来に不安を抱く。夫の目が覚めるまで、私は事務所を守ると義父に約束した。家族、そして愛する子供たちのために。私がやるしかないのだ。

事 務 員

夕方、設計事務所から戻った私に義父からの電話がかかってきた。二週間ぶりの連絡だった。

「どうだ、子供たちは元気か? 木村が辞めたから、仕事がますます忙しくなっているだろう」

義父母は私のことや子供たちの様子を気にかけてくれる唯一の存在だ。

「お前、痩せたって聞いたよ。仕事が心配だから、今事務所に電話したんだ。社員がそう言っていた」

以前は、義父は家族にも社員にも厳しく、私にとっては恐ろしい存在だった。その義父が優しい言葉をかけてくれるなんて信じられない。

「実は、俺もいろいろ考えて、お前のために事務所に事務員を雇うことにした」

「事務員ですか?」

今まで私以外の事務員がいたことは一度もなかった。

「今まではお前一人に任せていたが、俊太郎のことで一人で全部やるのは大変だろう。春から悠人も美穂も受験生だしな」

「はい…」

「俺の知り合いの紹介で事務員を雇ったから、明日から事務所に行くことになっている。お前の仕事を引き継いで、少しは休め」

正直、今の状況で一人で事務所の仕事をこなすのは無理だった。義父は私のことをしっかり考えてくれていた。

親や兄弟がいない私にとって、義父の気遣いがどれだけ嬉しかったか。

「お義父さん、ありがとうございます。助かります。私は頑張りますので、俊太郎さんが戻るまで事務所を守ります」

義父母に言われた言葉を繰り返し、私は元の夫婦に戻れると信じたかった。

「ところで、お義父さん、俊太郎さんの件はどうなっていますか?」

「もちろん、毎晩話している。あまり刺激しないように少しずつな。俊太郎の気持ちも冷めてきたから、心配しなくていい。ちゃんと預かっている」

「女とはどうなったんでしょうか?」

「帰る時間は以前ほど遅くなくなった。別れるには話し合いが必要だから、絶対に会うなとは言えない」

「そうですか。わかりました。私から俊太郎さんに連絡してもいいですか?」

「いや、今は変に刺激しない方がいい。俺に任せろ」

「わかりました。よろしくお願いします」

「仕事頑張れよ」

そう言って電話は切れた。義父の気遣いが私には希望の光だった。私には味方がいるのだ

翌日、義父の言った通り、一人の20代の女性が事務所にやってきた。おとなしめの地味な女性だった。彼女が仕事を覚えてくれればどれほど楽になるだろう。私は義父に感謝した

しかし、この時点では、義父の行動が私を助けるものではないことをまだ知らなかった。

兆 し

木村が退職して以来、設計事務所は混乱し、社員たちは疲れ果てていた。これは、木村が3ヶ月かけて引き継ぎをしたいと申し出たのに、夫がそれを「全く必要ない」と拒否したからだ。

退職の際に3ヶ月前に申し出るというルールがあったが、夫はこれを無視した。私は、夫に対する不満が募り、残された4人の社員も辞めてしまわないか心配だった。事務所は、昔のような和やかな雰囲気を失い、冷え切った状態だった。

その状況を作り出したのは夫自身であり、彼は周囲に対して責任を感じていないかのように不機嫌な態度を見せていた。しかし、私には一つの明るい兆しがあった。それは、経理に上がっていた沙織と会うために通っていたクラブの領収書が見当たらなくなったことだ

沙織の従姉妹が経営するその店は、沙織にとって新客を獲得するための便利な場所だった。夫が頻繁に通っていたが、今はもう行かなくなったらしい。

義父の家に泊まっている夫の帰宅時間は不明だが、クラブに行かなくなったことで、私の心は少し軽くなった。事務所が忙しいという理由でも構わない。夫と沙織が少しずつ疎遠になることを願う私がいる。情けないことに、こんな状況で期待している自分がいる。

もし一人だったら、もうとっくに夫の元を去っていたかもしれない。しかし、私は子供たちに穏やかな家庭を再び与えたいという夢を捨てきれずにいる。

両親が揃った平凡な家庭から子供たちを社会に送り出したい。これがいつか笑い話になる日を期待している自分がいることに、私は愚かな女だと気づくことになるだろう。

真 実(1)

夫が家を離れてから4ヶ月が経った。 来月から悠人は高校3年生、美穂は中学3年生、健二は中学1年生になる。 悠人と美穂は受験を控え、我が家はまさにダブル受験の年だ。 重要な時期なのに、家事や仕事、子育てに追われる日々で、やるべきことがどんどん増えていく。 夫のことも気にはなるが、目の前の仕事をこなすだけで精一杯だ。

 

 夫は家を出てから義父母の家に滞在している。 私が何度か話し合いを提案しても、夫はいつも理由をつけて避けてしまう。 離婚届を持ち出したのは夫の方なのに、彼の考えが全く分からない。 

もう理解しようとする気力もなくなってしまった。 この半年で体重は10キロも減った。 設計事務所では必要最低限の会話を交わし、生活費を稼ぎ、帰宅すれば子供たちの前では元気を装う。 疲れた心は安定剤で無理やり休ませるしかない。

 義父母との約束を守っていれば、いつか夫は帰ってくると信じているが、それが本当かどうかもわからない。 疲れ果てた。 もし夫も仕事もすべて放り出して子供たちと一緒に家を出てしまったら、どんなに楽になれるだろう。

しかし、そうなれば子供たちを傷つけることになり、私には罪悪感と苦しみしか残らない。 逃げても逃げなくても、結局は苦しみの中にいる。 「俺たちは美咲の味方だ。ちゃんと事務所を守っていれば俊太郎はお前の所に帰ってくる。俊太郎はうちで預かって説得する。」 その言葉にすがるしかない。 

子供たちの幸せのために、元の家庭を取り戻したいという気持ちは消えない。それが正しいのかどうかは私にもわからないが、消えないのだ。 それが子供たちへの愛の証かもしれないと思い、今も事務所に通っている。 

夫が子供たちに会ったのは年末と美穂がケガしたときの2回だけ。 夫は電話すらかけてこない。 口には出さないが、子供たちが不安を抱えていることは十分に感じている。 

せめて会うことや電話をしてくれれば、少しでも安心できるのに。 なんとか夫に子供たちに会ってもらおう。 会えないなら、電話でもしてほしい。

 世間話でもゲームの話でも、何でもいいから。 そう思った。 それくらい求めるのは当然ではないか。 夫は子供たちの父親なのだから。 

でも、どうやって? その相談をするために、久しぶりに義父の家に電話をかけた。 電話に出たのは義母だった。

真 実(2)

久しぶりに義父母の家に電話をかけた。心配している子供たちに会ってほしくて、相談したかったのだ。電話に出たのは義母だった。

「美咲さん、久しぶりね」と、穏やかで優しい声が聞こえた。私はこの声が好きだった。「お久しぶりです。お体の調子はいかがですか?」

義母の話によれば、義父はゴルフに行っていて、今は一人で家にいるとのことだった。最近は義父とのやり取りばかりだったため、義母と話すのは久しぶりだった。

「俊太郎さんに子供たちと会うようにお願いできますか?家を出てから、もう2回しか会っていないんです。」

「そうなの?彼は時々会っていると言っていたけれど」と義母は驚いた。

「実際には会っていません。子供たちは不安に思っているはずです。特に受験生の悠人と美穂には、少しでも安心してほしいのです。」

「わかるわ。子供たちを心配させてはいけないわね。」

「私は子供たちに俊太郎さんの悪口は一切言っていません。彼がいつでも戻れるように配慮しています。」

「子供たちは父親がいないことをどう思っているのかしら。」

「お義母さんには申し訳ないのですが、事情を言っています。おばあちゃんの具合が悪いから、俊太郎はおばあちゃんの家にいるということにしてあります。」

「それなら大丈夫よ。孫のためだもの。」

「だから俊太郎さんには安心して会ってほしいのです。」

義母は私の気持ちを理解してくれた。「子供たちには罪がないからね。何ヶ月も会えないなんて、心配しているわよ。」

「お願いです、俊太郎に会うように言ってください。」

「わかった。お父さんと私で説得するから。必ず会わせるわ。安心してね。」

ああ、義母に相談してよかった。彼女の言葉に涙がこぼれた。夫婦の問題なのに、義父母が私の味方でいてくれることが心強かった。

「ところで俊太郎は今日はゴルフに行っているのよ。」

「いつもの方たちとですか?」

「ええ、そうみたい。お父さんと取引先の人たちと一緒にね。」

「じゃあ、彼はゴルフの時には帰って来ないのですか?」

「そうなの。次にいつ帰ってくるかわからないけれど。」

「え?帰ってこないってどういうことですか?」

「俊太郎が帰ってきた時にちゃんと話すから、心配しないでね。」

「待ってください、お義母さん。帰って来ないって何ですか?」

「俊太郎はゴルフの時はこちらには戻らないの。だから次いつ来るかわからないって。」

「俊太郎さんは家を出てからずっとそこで暮らしているんですよね?」

「ええ、その通り。でも、時々こちらにも来ているのよ。」

「どこに住んでいるんですか?」

「美咲さん、このことを話したら怒られるから言わないでね。」

話が進むにつれて、私の不安が募っていく。電話は急に切れ、私は何も聞けずに残された。

尾 行(1)

義母との通話から二日が経過した。設計事務所は風邪を理由に休んでいる。私は騙されていた、夫も義父母も。義父の言葉を信じ、夫が義父の家にいると思い込んでいた自分が情けない。

何の疑いもなくその言葉を鵜呑みにしてしまった。義父の言葉を信じて必死に事務所を守ってきた私。しかし今、義父の嘘が明らかになり、事務所に行く気力も意味も失った。

怒りよりもショックが勝っていた。実家ではないのなら、夫は一体どこにいるのか。夫を問いただしても怒鳴られ、義父に聞いても「そんなことはない」と言われるだろう。

唯一の味方だと思っていた義父母。しかし、実際には彼らは夫の親であり、私より息子を優先するに決まっている。優しい言葉に騙されて、ただ信じて従っていた自分が愚かだった。

 

この頃の私は、そうしたことすら判断できないほど追い詰められていたが、それは言い訳にはならない。朝が来て、一睡もできなかった私は子供たちのために朝食とお弁当を用意し、普通の母親を演じる。

しかし、心は空っぽだ。子供たちがそれぞれの道を歩き出すと、一人になった私は何もする気力がなくなった。相談する相手もいなくなり、「消えてしまいたい」という思いが頭をよぎる。

そうすれば辛い思いともおさらばできるし、誰にも裏切られず傷つくこともないのに。そんなことばかり考えていた二日間。

昼過ぎ、子供たちが食事をしたテーブルで悠人の置いたプリントを見つけた。それは進路希望の調査票で、明日提出の指示があった。悠人はこの二日間の私の様子を見て、私に見せられなかったのだろう。私は何をしていたのだろう。

大学受験を控える息子にこんな気を使わせるなんて、本来は私が全力で支えるべき立場なのに。恥ずかしい。もう泣いている場合ではない。いつまでも落ち込んでいるわけにはいかない。子供たちがいるのだから、何とかしなければならない。自分自身のためにも。

私にはもう味方はいない。自分一人でやるしかない。まず、夫がどこに住んでいるのか、その真実を知りたい。しかし、もう知りたくない気持ちもある。だけど、知る必要がある。子供たちを守るために。

尾 行(2)

私にはもう頼れる人がいない。信じていた味方も失った。しかし、ダブル受験を控えた子どもたちのために、泣いている場合ではない。受験は人生の一大事であり、親として全力でサポートするのが私の責任だ。

健二も同様に、平穏で愛情のある家庭で育つ権利がある。それを守るために、私がしっかりしなければならない。もう一人の親がその役割を放棄したのだから、私がやらなければ。まずは夫の居場所を突き止める決意を固めた。

子どもたちの帰りを待ちながら、夕食を用意した。午後7時、食事が終わった後、「友達のところにDVDを返しに行ってくるね」と告げると、美穂は「いいよ、ゆっくりしてきて」と優しい言葉をかけてくれた。心が痛むが、泣かない。母が父を尾行するなんて誰も想像していないだろう。

車を走らせ、夫が事務所を出る時間を見計らって待機。北海道の冬は厳しく、寒さに震えながら玄関を見つめた。緊張の中、夫が事務所を出てきた。彼が車に乗り込み、義父母の家とは反対の方向へ走り出す。必死で尾行したが、信号に阻まれ、あっけなく失敗。私は一瞬放心状態になり、帰らなければならないと自分に言い聞かせた。

何をしているのだろうか。こんな夜に人を尾行するなんて、最低だ。涙が溢れた。ちょうど一年前、私は温かい家庭を支える普通の主婦だった。家に着くと、窓から漏れる光が温かさを感じさせる。そこには私の大切な宝物がいる。笑顔で帰ろう、彼らに心配をかけないように。夫の居場所は今、どこだろう。隣には誰がいるのだろう。

不倫の在処(1)

初めての尾行に失敗した翌日。 子供達が学校に送り出してから私はパソコンで探偵事務所を検索した。探偵事務所なるものがあることはもちろん知っているが実際ホームページを見ると「ほんとにあるんだな」と改めて思う。   

いくら見たところでどれが良くてどれが悪いかなど私にはわかるはずもない。 私は適当にその中の一件のフリーダイヤルに電話をした。「はい、もしもし五十嵐探偵事務所です」

「あっあの初めてなんですけど。ちょっといろいろお聞きしたいことがありまして」  

「あっ、はいどうぞ。どんなことでしょう?」 

「あのちょっと夫のことで調べていただきたいことがあって」  

「不倫ですか?」 

こちらの緊張とは打って変わって相手はあっけらかんとそう言った。

「え?あ!はい。そうなんです。

夫が家に帰らなくてどこに住んでいるのか調べていただきたいんです。できますか?」

「もちろん出来ますが一度お会いしてご説明させていただくことになっておりますが大丈夫ですか?」

「電話では無理なんですね?大体の費用だけでも知りたいんですけど」 

「会ってからでないとそういう詳しい話は出来ないことになってるんですがね」   

「すみません時間がなくて。そちらの事務所まではだいぶ遠くて。すみません…」  

「そうですか。それじゃ一般的な話だけですよ。二日間ご主人を尾行しますと普通50万円くらいですかね。お客様の場合はどれくらいか具体的にいろいろお聞きしないとわかりませんがね。50万は平均というかスタンダードな値段と思ってくださいね」   

「50万ですかわかりました。またお電話させていただきます。ありがとうございました」

たった二日で50万円。そんなにかかるんだ。想像していた額の倍以上。私の想像を遙かに超える金額。家族の預金の通帳は夫が持って行った。その通帳には私の給料も積み立ててあった。その通帳が手に入らない今、私には自由になるお金がない。  ましてそんな大金ならなおさらのことない。探偵に頼むことは諦めるしかない。 やはり自分でやるしか道はないようだ。

 それは4度目の尾行のことだった。3度の尾行はいずれも信号で失敗した。

私は友達に食事と映画のナイトショーに誘われたと子供達に嘘をついた。 

もうこれ以上子供達に嘘をついて長時間外出するのは限界。  

元々夜外出してなにか出来るほどこの街は都会ではないのだ。

これで失敗したら子供にうそをついての夜の尾行はしばらくは無理だろう。

午後7時夕飯の支度を済ませ私は家を出た。

7時20分例のコンビニに到着。3月の北海道はまだ真冬。家を出る頃ちらついていた雪は吹雪へと変わった。

ほどなくして社員達が事務所から出てくるのが見えた。各々が車のエンジンをかけスノーブラシで車の上の雪を下ろす。 

すぐさま車に乗り込むと暫くエンジンを暖めた後帰って行った。

吹雪は私の車を彼らの視界から消してくれる。 

それから30分もしないうちに夫が設計事務所から出てきたのが見えた。

吹雪の中ダウンジャケットのフードを目深にかぶりスノーブラシを使うのに必死でコンビニの端っこに停めてある私の車には目も向けない。

数分後夫の車が事務所の駐車場を出ると私は車間距離を十分にとってその後に続いた。 

バクバクと心臓が大きな音を立てる。今度こそ失敗は出来ない。緊張が走る。

8時過ぎ夫の車は接待でよく使う料亭「柳」の駐車場に入って行った。 

この時間「柳」に来たと言うことは今夜はどうも接待のようだ。

私は「柳」の門が見えるスーパーの駐車場に車を停めた。 

2時間も過ぎた頃夫は取引先の男性らしき人物と店を出て代行車に乗り込んだ。

二次会に行くのだろうか。代行車に2台の車が続く。 

その後ろに私はぴったりと付き車を走らせた。今回は信号で失敗することもなかった。

そして着いたのは沙織と夫が会っていたクラブ「ドルチェ」の前だった。

狭い飲み屋街の道。私は何度もドルチェの周りをぐるぐると回りなんとか入り口が見える路地に無理矢理車を停めた。 

そして12時をまわった頃一台の代行車がドルチェの前に停まると接待相手の男性が一人乗り込んで帰って行った。

と言うことは夫はまだドルチェの中なのか。ひたすら車の中で待った。  

午前1時一台の代行車がドルチェの前に。いよいよ夫が出てくるか。

私は前屈みになりドルチェの入り口をじっと見つめた。 

そして出てきたのは夫だった。夫はきょろきょろと周りを見渡し代行車に乗り込んだが 

車は停まったまま。なぜ車は動かないのだろう。もしかしてドルチェに沙織もいたのだろうか。 

5分も経った頃ファのコートを肩にかけた中年女が店から姿を現した。

年は50過ぎといったところだろうか。コートの下の真っ赤なスカートが吹雪の中でもやけに目に付いた。 

夫が乗った代行車のドアが開くと女はするりと車に乗り込んだ。それは初めて見る夫の不倫相手沙織の姿だった。 夫の接待にさも同席していたのだ。   

夫はこうやって沙織の従姉妹のドルチェにお金を落としてやっていたのだ。遠目とはいえ夫の不倫相手のその姿を目の当たりにし私の心は激しく動揺した。  

しかしそんなことで動揺している暇はない。今度こそは尾行を成功させなければ。元々夜外出しない母親がこう頻繁に長時間外出しているのをきっと子供達は内心気にしている。  

なんとしても今夜成功させなければもう暫くは夜家を出てこれない。今夜こそは。

不倫の在処(2)

雪が激しさを増す中、私は夫の車を追いかけていた。視界が悪いため、いつもより車間距離を詰めても大丈夫そうだ。

信号も点滅になり、もう邪魔が入ることはない。三台の車は、私の知らない道を走り続けた。20分ほど走ると、中心街から離れた畑の中にポツンと建つ一軒家が見えてきた。先頭の代行車がそこに停まると、私は少し離れた場所に車を停めてエンジンを切った。

吹雪は収まりつつあった。私は息を潜め、その家を見つめている。

赤いスカートを翻した沙織が車から降り、その後から夫が出てきた。センサー式の外灯が点き、二人の姿がはっきりと見える。そして、二人はその古びた一軒家に入っていった。

酔っているのか、楽しそうな笑い声が静寂の中、かすかに聞こえてきた。間もなく、2階の窓に明かりが灯る。あそこが二人の部屋なのだ。私の夫と、不倫相手・沙織の。

予想はしていた。夫は「実家にいる」と言って出て行ったきりだった。でも、現実を突きつけられると、その衝撃は想像以上に大きかった。私はその場から動くことができない。

どれくらい経っただろう。部屋の電気が消えた。あそこで、私の知らない女と、私の夫が眠りについたのだ。

何もできない自分が、ただただ情けない。この世から消えてしまいたい。そんなことまで考えてしまった。しばらくの間、二人の眠る部屋を見つめていた。

 

エンジンを切っているので、車内は冷く、フロントガラスは私の吐息で凍りついている。その隙間から、冷たく青い月がこちらを見下ろしていた。まるで、私を違う世界へといざなうように。私は車を降り、ふらふらと沙織の家へと歩き出した。

足元の雪が、ギシギシと音を立てる。家の前に着くと、二人の眠る2階の部屋を見上げた。

ここで、私の夫は眠っている。一日の最後を、あの女と過ごしている。もしも、ここで私が死んでいたら…。二人は、どんな顔をするだろう。そんなことを考えてしまった。

でも。私には、子供たちがいる。子供たちの顔が、頭に浮かんだ。そうか。私はまだ、消えるわけにはいかないんだ。こんなところで、負けるわけにはいかない。子供たちのために。

私は正気を取り戻すと、スマホを取り出して、夫の車を写真に撮った。ナンバープレートがしっかり見えるように、アップで一枚。そして、家の前で、もう一枚。これは、紛れもない不倫の証拠だ。

真っ暗闇に、二度、フラッシュの光が走る。もう、私は戦わなければならないのだ。泣いている場合じゃない。あなたは、あの女と生きることを選んだのね。私と、三人の子供たちを捨てて。

あなたはもう、違う人生を歩み始めていたんだ。私たちには内緒で。 もう、あのクラブで会う必要もなくなったわけね。同じ家で暮らして、親にも認められて、夫婦同然の生活を始めたというわけか。

知 ら せ

夫の不倫の証拠を手に入れた私は、次にどうすればいいのか迷っていた。夫の車が沙織の家の駐車場に停まっている写真は撮ったが、これをどう使えばいいのかわからない。

夫が沙織の家に泊まっていることはわかったが、そこに単身乗り込む勇気は私にはない。車の写真を夫に突きつけても、夫は平気で嘘をつくだろう。

子供たちに真実を話していない以上、友人や知人に相談することもできない。万が一話が漏れ伝わって子供たちの耳に入る恐れがあるからだ。私は一人でどうすればいいのか迷っていた。

その夜、私は不思議な夢を見た。晴天の中、リンゴ畑のある丘を登っていた。母方の親族が喪服を着て同じ道を登っているのが見えた。母が私の横に来て、「今日は叔父さんの三回忌なんだよ」と言った。

夢の中で私は、母方の実家の墓地があることを思い出した。叔父は労災で亡くなった。墓地でお花とお線香をあげ、みんなで手を合わせた。

東屋で休憩している叔母たちが話をしていた。「会社に労災認定させるのが大変だったらしいね。苦労したんだねぇ」と誰かが言った。

叔母は、「裁判は大変だったわ。弁護士雇って時間もかかるし。何回裁判所に行ったか。だけど私日記つけててね。夫の過重労働の実態も全部書いていたの。夫の病院の領収書や先生に言われたことのメモとか夫の手帳や走り書きなんか取っておいたからそれが証拠になって勝てたんだよ」と言った。

叔母の言葉に皆感心した。「よくそんなものまできちんととっておいたもんだね。あんたは子供頃から几帳面でまめだったからその性格が役立ったんだね」と誰かが言った。

私はそこで不思議な夢から覚めた。

朝、子供たちを起こし、朝食と弁当を作った。子供たちを送り出して、ソファに座り、夢の中の叔母たちの会話を思い出した。

日記、領収書、証拠があれば難しい裁判にも勝てる。確かにあの日叔母が皆にそう言っていたのを私は聞いていた。

私は日記を付け始めた。夫の言動の一部始終や私の悩みや子供たちのことなどを書いている。

次に証拠となるものを集める必要がある。現在不倫の証拠になる物は、沙織の家の前の夫の車の写真しかない。もっと証拠になるものを集めないと。

証拠を集めるには夫に接触しなければ。接触できるのは設計事務所だけ。私は明日から事務所に出社しようと決めた。

夫に私が探っていることを知られてはいけない。何事もなかったように今まで通りに事務所に行こう。不倫の証拠となる何かをこの手にするために。

私は翌日から事務所に出社した。幸い夫は私が体調不良で休んでいたと思っているらしい。義母も私との会話のことは話していないようだ。

私は夫が怖かった。目が合えば理由もなく私に暴言を吐き攻撃してくる夫が怖かった。しかしやらなければ。自分と子供たちを守るために私は負けないあの人達には負けない。

弁 当

私は翌日から設計事務所に出社した。幸い夫は私がこの5日間ただの体調不良で休んでいたと思っているらしい。義父に依存して生きいる義母は怒られるのが怖いのだろう。私との電話のことは話していないようだ。 

私が既に夫がどこで誰と暮らしているのか突き止めたことは誰も知らない。 義父も夫も今だ私を上手くだませていると思っている。 

義父の言葉を信じ義父母の言うとおりに動くつい先日までの私を夫と義父母はどんな気持ちで見ていたのだろう。

しめしめ馬鹿な女と思っていたに違いない。確かに彼等にとって今までの私は何の後ろ盾もなく言われたことを疑いもなく鵜呑みするちょろくて馬鹿な女だった。  

体調を心配してくれる社員に私は欠勤を詫びると今まで通りに仕事をした。

尾行したこと女の家を突き止めたこと不倫の証拠を探すために再び事務所に舞い戻ってきたことを誰にも悟られないように。  

証拠探しのための出社とはいえ現実夫の顔を見るとなんとも言えない気持ちが込み上げる

憎しみ、だろうか。きっとそれだけではない。憎しみと言うよりは、絶望。 信じていた人だったからこそその思いは複雑で深い。  

昼 時

小さな食堂で仕出しの同じ弁当を社員とみんなで食べるのが義父の頃から常だった。ふと見るとその日は夫だけ自前の弁当を持ってきている。 

花柄の弁当用バックに入れられた弁当。弁当箱はまるで幼稚園児が使うようなアンパンマン柄のものが二つ。水筒には車の絵。どちらも幼児用。

沙織の息子のお下がりだろうか。私がそれを見ていると隣にいる社員が私の耳元で言った。

「実家のお母さんが作ってくれてるんだそうです。三日前から持ってきてます。ほんとですかね」

義母が…… もうそんな言い訳をだれも信じていない。もちろん私も。その言い訳が通用していると思っているのは夫だけ。

夫は私と社員が見ているその食堂で不倫女が持たせた弁当を悪びれることもなく食べている。

不倫女と暮らしたいのであれば私と離婚すればいい。私と離婚したいのであればまず話し合えばいい。 子供のこともあるのだから多少もめることはしかたない。

私が納得するまで話し合って金銭の保証をし離婚すればいい。離婚が成立した暁には女と夫婦になるなり自由にすればいい。その手間のどれもをすっ飛ばしいきなり女と暮らし始めた夫。  

それでどうにかまかり通るとほんとにこの2人は思っているのだろうか。 

不倫脳は怖い。本当に怖い。でももしかして世間から見れば証拠集めを目的にのこのこと事務所にやって来る私も彼等となんら変わりがないほど頭がおかしくなっているのかもしれない。 

私ももうきっと頭がいかれているのだろう。でも、それでもいい。どう思われてもいい。それで少なくとも子供達の生活と未来を守れるのなら私はなんと思われたっていいのだ。

子供達の生活と未来を守ることが出来ればあとはもうどうなってもいい。私はもういつ死んだっていい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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