焦 燥 感
長男悠人の大学センター試験まであと一か月を切ったが、夫は未だに進学費用を出すと言わないでいる。弁護士からも裁判所からも連絡が来ず、私は焦りを感じている。夫は本気で長男に大学進学を諦めさせるつもりなのだろうか。私は信じられない。実の父親がやることじゃない。
弁護士は、夫が出すと言わない限り、夫から進学費用を法的に取る方法はないと言った。裁判所も弁護士も私の言うことに理解は示してくれたが、実際に夫に対して強制的に何かできるわけではない。私は長男の大学進学が消えてなくなることを心配している。
私は夫に進学費用を出すと言わせる方法を考えているが、夜もほとんど眠れなかった。
私は焦るばかりで、弁護士に電話をして「佐藤先生、長男の進学費用のことなんですけど」と尋ねた。弁護士は「実はその件は、私も何度も旦那さんの弁護士に電話をしているんですけど電話に出ないんです」と答えた。
私は驚いた。弁護士ともあろう者が、そんなことをするなんて。佐藤弁護士が何度も電話する理由は先方弁護士ももちろんわかっているだろう。センター試験が間近であることも。なのに一切電話に出ない。子供の人生がかかっているのに。
私は佐藤弁護士から言われていた、一つの決めごとを初めて破ることを決めた。なんとしても子供だけは守る。
携帯電話
美咲は、弁護士との約束を破り、夫に直接連絡を取ることにした。本来、調停中は当事者同士の連絡は禁止されている。しかし、息子の悠人の進学費用問題が膠着状態にあるため、美咲は行動を起こす必要性を感じていた。
木曜日の夜、美咲はまず夫の携帯電話に非通知で電話をかけたが、何度かけても出なかった。夫が警戒していることを察知した美咲は、今度はあえて事務所の固定電話に非通知で電話をかけた。すると、夫が出た。
美咲は悠人の進学費用について尋ねた。しかし、夫は冷淡な態度で、費用を出すつもりはないと言い放った。さらに、悠人が大学進学を希望していることすら知らないと言い、美咲と子供たちの証言を嘘だと決めつけた。
美咲の怒りは頂点に達した。彼女は、夫が子供たちに大学進学を許可した時の会話を録音していたことを明かした。夫は驚き、美咲を盗聴呼ばわりした。美咲は盗聴の違法性を問われたが、証拠として録音したのだと反論した。
追い詰められた夫は、激昂して電話を切った。
美咲は、この行動がルール違反であることを自覚していた。しかし、息子の未来を守るためには、手段を選んでいる余裕はなかった。この大胆な行動が、吉と出るか凶と出るかは、まだ分からなかった。あくまで、美咲は自分ができることをしただけだった。
受験の朝
夫との電話で、美咲は彼の冷酷な現実に直面した。子供たちの進学費用についての話し合いは決裂し、夫は父親としての責任を放棄しているように見えた。美咲は、かつて家族として過ごした日々を思い出して欲しかったものの、夫の心はすでに離れていた。彼は新しい生活に夢中で、美咲たち家族は過去の存在でしかなかった。しかし、美咲にとって、夫は今も子供たちの父親であり、家族の絆は消えていなかった。
センター試験当日、美咲は悠人を見送ったた。凍えるような寒さの中、悠人は友人たちと共に試験会場へ向かった。美咲は、エプロン姿のまま家の前から悠人の姿が見えなくなるまで見守り、祈るような気持ちで見送った。悠人の成功を願う一方で、美咲は自分が家族を守るために強くならなければならないことを改めて実感した。吹雪く雪の中、美咲は悠人の未来と、自分自身の戦いが始まるのを感じていた。
佐伯からの電話
佐伯から美咲に電話がかかってきた。大学受験を終えた長男・悠人の近況を尋ねる佐伯は、美咲と夫・俊太郎の調停が続いていることも知っていた。そして、俊太郎の不倫相手・沙織についての新たな情報を美咲に伝える。
以前、佐伯は沙織が保険会社で働いていることを突き止めていた。今回、佐伯の知り合いが沙織に保険を契約させられたことがきっかけで、沙織の新たな噂を耳にしたのだ。高級クラブ「ドルチェ」に出入りする沙織は、金持ちの客を狙って保険を売りつけていたらしい。
さらに、沙織が保険会社を辞めたという情報も入手した。理由は、俊太郎との不倫関係が会社に知れ渡り、問題になったためだ。沙織は首にキスマークをつけて出社するなど、
不倫関係を隠そうともせず、顧客からの苦情もあったという。
沙織は無職の息子と母親と暮らしており、収入は沙織の給料と母親の年金だけだった。
そこに俊太郎が転がり込んだことで、生活費は俊太郎の収入に頼ることになる。美咲は、沙織一家を養うために、俊太郎が悠人の進学費用を出し渋っているのではないかと考えた。
佐伯からの情報で、美咲は俊太郎と沙織の軽率な行動、そして自分たちの置かれた状況の深刻さを改めて認識する。夫は新しい恋人一家を養うため、息子の未来を犠牲にしようとしていたのだ。美咲は、これが現実であるという残酷な事実に愕然とした。
第3回離婚調停(その1)
大学入試センター試験の二日前、私は不安に駆られて夫に直接電話をした。通常は代理人を通すべきだが、そんなことを言っていられない状況だった。試験が目前に迫っていたのだ。
進学費用について話し合いたかったのに、夫は冗談めかして「大学に行くなんて許可してない。子供が嘘をついている」と言った。
「録音があるからね」と私は言った。子供たちとの話し合いで、長男の進学を認める発言をした夫。その証拠があると伝えると、夫は怒って電話を切った。結局、進学費用の話はまとまらなかった。
そして試験の日がやってきた。私の電話が夫にどれだけ影響を与えたのかはわからないが、できることはやったつもりだった。
北海道の厳しい冬、猛吹雪の中で3回目の離婚調停の日が訪れた。この調停で、夫は長男の進学費用を出すかどうかの返答をすると言っていたが、果たして何を言ってくるのか。
さすがに今日も欠席ということはないだろうが、もしそうなったら私は冷静ではいられないだろう。沙織の家に乗り込むしかない。
裁判所に向かう車の中で、そんなことを考えていた。
裁判所に着くと、夫と顔を合わせないように早めに相手方待合室に入った。5分ほどして佐藤弁護士がやってきました。
「先生、結局向こうの弁護士さんとは連絡がつかなかったんですか?」
「あれから何度も電話したんですが、携帯も固定電話も出ないんですよ」
「そんなことってあるんですか。弁護士さんともあろう人が」
「普通はありません。いくら電話を無視しても、裁判所には出てこなくちゃならないですからね」
その通りです。
私はいつでも沙織の家に行けるのに、約束の日に逃げた沙織のことを思い出した。
「長男の件もご存じなのに、ずいぶんひどい弁護士さんですね」と私は言いました。
「このことは裁判所にも報告しました。そしたら、昨日の夕方になって、やっと先方弁護士から電話が来まして、ご長男の進学費用の件について話したんです」
「え?なんて?なんて言ってたんですか?向こうの弁護士は」
「それが、なんだか弁護士自体も要領を得なくて」
「要領を得ない?」
「はい。どうも、先方の弁護士も俊太郎さんと、ちゃんと話ができていないみたいなんですよね」
「今日は、大事な返事をする日なのに、夫は弁護士さんと打ち合わせをしていないってことですか?」
小心者の私は、調停のたびに佐藤弁護士とどう進めるのが最善か、電話で打ち合わせをしているのに。
「はっきりは言わないんですが、俊太郎さん自体が弁護士の電話に出ないみたいなんですよね」
自分の一番の味方である弁護士の電話に出ないってどういうこと?
「そのへんのとこ突っ込んで聞いたら、あとは明日の調停で本人が話すでしょうからの一点張りで」
「わかりました。でも今日は返事は必ずもらえるんですよね?まさか…また欠席なんてことは…」
「それはもちろん大丈夫です。もしまた出てこずに返事を引き延ばそうものなら、裁判所側も黙っていないはずです」
すでにセンター試験は無事に終わり、東京の希望大学への願書提出も済みました。
一か月後には東京で大学受験。
そしてその一か月後には、もう大学の入学式です。
悠人はすでに、4月から東京に出る気満々でいます。
残された問題はお金のことだけ。
そしてそれを調達するのは私の役目です。
これができなければ、悠人のこの何年間の努力が水の泡になってしまいます。そんなことには絶対にしません。私がさせません。
第3回離婚調停(その2)
ついに3度目の調停が始まる時が来た。
最初に俊太郎の側が調停室に呼ばれた。私は別室で待機することになった。
「美咲さん、ところで悠人君のセンター試験の結果はどうでしたか?」と佐藤弁護士が尋ねてきた。
「ええ、本人曰く、まあまあだったそうです」と私は答えた。
「それは良かったですね。一安心ですね」
「はい。だからこそ、俊太郎から学費を出してもらわないと」
「承知しています。私も全力を尽くしますから」
佐藤弁護士の目に決意が宿っていた。
しかし、俊太郎側の話し合いが異常に長引いている。通常20?30分程度のはずが、1時間近く経っても終わる気配がない。不安が募る。
ようやく私たちの番が来た。席に着くや否や、調停委員が切り出した。
「美咲さん、先ほど俊太郎さんからお話を伺いました」
「はい…」心臓が高鳴る。
「俊太郎さんは、美咲さんがこの調停で離婚に同意するなら、貯金から悠人君の学費を出すと言っています」
驚きで頭が真っ白になった。有責配偶者である俊太郎が、このような条件を出してくるとは。
「そんな身勝手な要求は受け入れられません。離婚する意思はありません」と私は強く主張した。
調停委員は俊太郎の言い分を繰り返したが、私は毅然とした態度を崩さなかった。
「俊太郎に伝えてください。離婚は認めません。しかし、悠人の学費は家族の貯金から全額出すように」と私は言い切った。
調停委員たちは小声で相談し始め、私に一旦待合室に戻るよう指示した。
怒りに震えながら、私は部屋を後にした。
待合室に戻っても、私の胸の内は収まらなかった。俊太郎の態度に憤りを感じずにはいられない。
自分の子供の未来をこんなにも軽んじるなんて。しかも、出せないお金を要求しているわけではない。あるはずの資金を出し渋るその姿勢が、私には到底受け入れられなかった。
「佐藤先生、さっきは申し訳ありませんでした」と私は謝罪した。
「何がですか?」と佐藤弁護士。
「先生がいらっしゃるのに、私一人で感情的になってしまって…」
「いいえ、美咲さんの調停ですから、言いたいことを言って構いませんよ」
佐藤弁護士の言葉に少し安堵した私。しかし、次の提案に驚いた。
「ところで、俊太郎さんと直接対面してみませんか?」
「え…対面ですか?」
私の心臓が早鐘を打ち始めた。俊太郎と同じ空間にいるだけで恐ろしい。しかし、佐藤弁護士は続けた。
「美咲さんの言葉で直接訴えかければ、効果があるかもしれません。時間の節約にもなりますし」
不倫が始まってから、様々な理不尽な目に遭わされてきた。俊太郎との対面は想像するだけで息苦しくなる。
しかし、心の中の声が私を奮い立たせた。「今やらなければいつやるの?悠人の将来がかかっているのよ」
深呼吸をして、私は決意を固めた。
「わかりました。先生のおっしゃる通り、対面でやってみます」
覚悟を決めたものの、膝の上で握りしめた手は小刻みに震えていた。予想外の展開に、私の心は激しく揺れ動いていた。
第3回離婚調停(その3)
突如として、私は自分の口から予想外の言葉が飛び出すのを聞いた。「俊太郎さんと直接話し合いたいです」。その瞬間、胸が締め付けられるような感覚に襲われた。
過去の記憶が走馬灯のように駆け巡る。言葉の暴力、冷たい沈黙、皮肉な敬語、陰湿な嫌がらせ、金銭的な締め付け。これらの経験が、私の心に深い傷跡を残している。
しかし、時は待ってくれない。悠人の大学入学が迫っている。今日、ここで決着をつけなければ、全てが水の泡になってしまう。法的な強制力がないのなら、自分の力で道を切り開くしかない。
佐藤先生は私の葛藤を察したのか、「無理はしないでください。いつでも中断できますから」と優しく声をかけてくれた。私は感謝しつつも、自分に鞭打つように決意を固めた。
先生が席を外した隙に、私はバッグから取り出した安定剤を乾いた喉に押し込んだ。水なしで飲むのは辛かったが、それどころではない。
「対面が許可されました」。戻ってきた佐藤先生の言葉に、私の心臓は再び激しく鼓動を始めた。「あなたの言葉こそが最も力を持つはずです」という励ましに、かすかな希望を感じる。
調停室へ向かう廊下は、まるで処刑場への道のように感じられた。足取りは重く、各一歩が永遠のように思えた。俊太郎との再会。その想像だけで、私の全身が緊張で硬直しそうになる。
しかし、悠人の未来のために、この試練を乗り越えなければならない。深呼吸を繰り返しながら、私は震える手で調停室のドアノブに手をかけた。
第3回離婚調停(その4)
当初は別室での調停を想定していたが、事態は思わぬ方向へ転じた。夫の非協力的な態度に業を煮やした調停委員の判断で、突如として対面での話し合いが決定したのだ。
心の準備もないまま、この状況に放り込まれた私。本音を言えば、夫の顔など二度と見たくなかった。しかし、ここで引き下がるわけにはいかない。悠人の未来がかかっているのだから。
静寂に包まれた廊下を歩く私たちの足音だけが、不気味に響く。まるで、この建物に人気がないかのようだ。
緊張で固まった手で、調停室のドアを開ける。
そこには既に、見知らぬ男が座っていた。高級スーツに身を包み、洗練された眼鏡をかけたその姿は、かつての夫の面影すら感じさせない。沙織の影響だろうか。その姿を見るだけで、吐き気を催した。
机を挟んで向かい合う形で着席する。わずか2メートルの距離なのに、まるで深い溝が横たわっているかのようだ。夫の視線を避け、私は俯いたまま。
調停委員の声が響く。「では、まず旦那様に伺います。離婚の意思は変わりませんか?」
「はい、変わりません」夫の冷たい声が、私の心を刺す。
かつては愛おしく感じたその声が、今は恐怖の対象でしかない。
調停委員が離婚理由を確認する中、私は心の中で叫んでいた。「本当の理由は不倫じゃないの?」しかし、そんな本音を口にする人はいない。
やがて私に質問が向けられる。深呼吸をして、心を落ち着かせる。
「私は離婚に同意できません」と答える私。「夫は不倫をしています。相手のことも、同居していることも把握しています。そんな身勝手な要求に応じるわけにはいきません。3人の子供もいるのです」
夫は不倫の事実を否定したが、私はそれ以上追及しなかった。今は別の優先事項がある。
「すみません、長男の進学費用について話し合いたいのですが」と切り出す。
センター試験の結果や願書提出の話をし、時間の切迫性を訴える。「夫は子供たちに進学費用を出すと約束しています。離婚の話よりも、この件を先に決着させたいのです」
調停委員も理解を示し、夫に確認の質問を投げかける。私は、裁判所が子供の利益を真剣に考慮してくれることを実感し、わずかな希望を感じた。
離婚調停不成立(その1)
「子どもさんとの約束は事実なのでしょうか?」調停委員が再度確認を求めた。その表情から、この点が重要であることが伺えた。
夫は怒りに満ちた目で私を見つめ、沈黙を貫いた。
調停委員は夫の弁護士に向き直った。「この件について、どのようにお聞きになっていますか?」
弁護士は言葉を濁した。「えーと、その…」
「把握されていないのですか?」調停委員の声には呆れが混じっていた。
私は思わず口を挟んだ。「もし認めていただけないなら、録音を再生させていただきますが…」
調停委員は驚いた様子で「今ですか?」と尋ねた。
「はい。息子の将来がかかっています。時間的猶予もありません。今日中に決着をつけなければ」と私は主張した。
場の空気が一変する。全員の視線が夫に集中した。
長い沈黙の後、夫がようやく口を開いた。「…はい」
「間違いありませんね?」調停委員が確認する。
「…はい。わかりました」夫の声は小さかったが、はっきりと聞こえた。
私の胸に安堵が広がる。長年の懸案だった進学費用の問題に、ようやく光明が差した瞬間だった。
しかし、これで終わりではない。私の戦いはまだ続く。
離婚調停不成立(その2)
長年の懸案が、ついに解決の糸口を見出した瞬間だった。夫の同意を得られたことで、悠人の未来に光が差し込んだ。しかし、これは単なる始まりに過ぎない。
私は深呼吸をして、次の一手を打つ準備をした。「申し訳ありませんが、もう少しお時間をいただけますでしょうか」
調停委員の許可を得て、私は慎重に言葉を選んだ。「夫との連絡が取れない状況が続いているため、この場で進学費用の詳細を確認させていただきたいのです」
用意してきたリストを取り出し、一つ一つ項目を読み上げていく。入学金、授業料、生活費、家賃…すべてが網羅されていた。
夫の表情が徐々に曇っていくのが見えた。しかし、後戻りはできない。
「これらの項目について、ご異議はございませんか?」私は冷静を装いつつ、内心では緊張が高まっていた。
夫が突如として声を荒げた。「アルバイトはどうなんだ?」
私は冷静に返答した。「もちろん、悠人も働く意思はあります。奨学金の申請も行っています。ただし、基本的な費用は私たち親が負担すべきだと考えています」
夫の反論は続いた。寮の可能性や、その他の細かい点について。しかし、私は一つ一つ丁寧に説明し、反論を封じていった。
最後に、私は重要な要求をした。「今後の準備のため、夫との連絡手段を確保したいのです。電話に出ていただけますよう、お願いします」
調停委員も同意し、夫も渋々ながら頷いた。
この瞬間、私は大きな達成感に包まれた。かつての臆病な自分は影を潜め、子供たちの未来のために戦う強い母親へと変貌を遂げていた。これは終わりではなく、新たな始まりなのだ。
離婚調停不成立(その3)
長い戦いの末、ついに目標を達成した瞬間だった。調停委員の言葉が、その成果を締めくくるように響いた。
「これにて本日の調停を終了いたします。次の手続きについては、別室でご説明いたします」
私と弁護士は待合室に戻った。そこで、思わず感情が溢れ出した。
「先生、本当にありがとうございました。これで息子の夢を叶えられます」
弁護士は優しく微笑んだ。「あなたの努力の賜物です。よく頑張りましたね」
その言葉に、私の目に喜びの涙が浮かんだ。
しばらくして、再び調停室に呼ばれた。裁判官が静かに宣言した。
「本調停は不成立となります。これ以上の話し合いでは合意に至らないと判断いたしました」
その瞬間、長年背負ってきた重荷が一気に軽くなったような気がした。
最後に、裁判官が私に向かって温かい言葉をかけてくれた。
「お子様の受験、心からの成功をお祈りしています」
その言葉に、私は深く感動した。血のつながりのない人でさえ、こんなに親身になってくれる。この1年半で経験した理不尽な出来事の中で、こんな温かい言葉に触れ、人間性への信頼を取り戻せた気がした。
これで息子を希望の大学へ送り出せる。安心して学業に打ち込める環境を整えられる。母親として、これ以上の幸せはない。
息子の未来に幸多かれと祈りながら、厳しい冬の寒さの中、私は新たな一歩を踏み出す準備を始
めた。
私の過ち
長年の懸案事項がようやく解決し、ほっとした矢先のことだった。思いもよらぬ出来事が、私の人生を大きく揺るがすことになるとは。
その日、娘の美穂が体調不良で早めに帰宅した。いつもなら家にいるはずの私が不在で、薬を探していた彼女は、偶然にも私の寝室で重大な秘密を目にしてしまう。
枕の下に隠されていた一枚の紙。そこには、家族の崩壊につながりかねない詳細な記録が記されていた。夫の不貞、家庭内の混乱、そして私自身の苦悩。中学3年生の美穂には、あまりにも重すぎる現実だった。
この不注意が、どれほど深刻な結果をもたらすことになるのか、その時の私には想像もつかなかった。
美穂は、この秘密を長年胸に秘めたまま過ごすことになる。彼女の内なる葛藤や苦しみを、私は全く気づくことができなかった。
やがて真実を打ち明けた日、美穂の言葉に私は打ちのめされた。
「やっと話せてよかった。一人で抱え込むのは本当に辛かったから」
その瞬間、私は自分の過ちの重大さを痛感した。大切な子供を、自分の不注意で長年苦しめてしまったのだ。
この出来事は、私の心に消えることのない傷跡を残した。美穂が一人で耐え忍んだ時間を思うと、今でも胸が締め付けられる。
母親として、人間として、私は取り返しのつかない過ちを犯してしまった。この罪の重さは、一生背負っていかなければならないだろう。
部屋探し(その1)
長い交渉の末、ようやく息子の大学進学費用について合意に達した。夫は全ての費用を負担すると約束したが、その真意は複雑だった。
弁護士は説明した。「今回の調停は不調に終わりましたが、進学費用の約束が取れたのは大きな成果です。ご主人も、将来的な不利益を避けるため、この決断をしたのでしょう」
その言葉に、私は複雑な思いを抱いた。夫の決断が純粋な父親としての愛情からではないことを知り、悲しみと安堵が入り混じった。
一方、息子の悠人は希望に満ちていた。大学合格を見越して、早くもアパート探しを始めていた。友人の大村と同じ建物に住むことを夢見て、熱心に物件を探している。
「ねえ、大村の両親がいい物件を見つけたんだって。僕もそこに住めたらいいな」と悠人。
私は息子の嬉しそうな様子に、久しぶりに心が温まる思いがした。ネットで物件を見ながら、二人で新生活について語り合う。24年前の私たちの学生時代とは、物件探しの方法も大きく変わっていた。
悠人が友人と電話で楽しそうに話す姿を見て、家族全体の雰囲気も明るくなっていくのを感じた。この穏やかな時間が、これからも続いていくことを心から願った。
新しい人生の章を開こうとしている息子を見守りながら、私は家族の未来に希望を見出していた。困難はあっても、こうして前を向いて歩んでいける。そう信じられる瞬間だった。
大間違い
家族の絆が崩れ始めたのは、私の夫が新しい役職に就いた頃からだった。それまで、彼は家庭のことにほとんど関心を示さず、子供たちの学校行事にもめったに顔を出さなかった。私もそれを当然のように受け入れていた。
ところがある日、突然息子の三者面談に参加すると言い出した。私たち家族は驚きましたが、良い変化の兆しかもしれないと期待した。
しかし、その期待は見事に裏切られた。面談から帰ってきた息子は怒り心頭でした。夫の態度があまりにも傲慢で、先生に対しても不適切な発言をしたというのです。
「もう二度と学校に来てほしくない」と息子は訴えた。私も息子の気持ちがよく理解できた。
その後も、夫の態度の変化は顕著になってきた。取引先の銀行員に対しても横柄な態度を取るようになり、周囲を困惑させた。
今思えば、この頃から夫は別の女性と関係を持ち始めていたようだ。人は付き合う相手によって変わるものだ。夫の態度の急変は、その兆候だったのかもしない。
もし私がもっと早くこの変化に気づき、適切に対応していれば、家族の崩壊を防げたのではないかと後悔することがある。しかし、過去を変えることはできない。
この経験から学んだのは、家族の変化に敏感になり、問題が大きくなる前に向き合うことの重要性だ。そして、自分の直感を信じ、家族のために勇気を持って行動することの大切さなのだ。
今では、この苦い経験を糧に、より強い家族関係を築くために努力しています。過去は変えられませんが、未来は私たちの手の中にあるのです。
部屋探し(その2)
息子の大学進学に向けて、新たな課題が浮上した。友人の母親から、東京のアパートの話が持ち上がった。
「良い物件を見つけたの。仮押さえしようと思ってるんだけど、一緒にどう?」と彼女は提案してきた。
正直、地元の友人と一緒に暮らすことに少し躊躇いはあった。しかし、初めての一人暮らしを考えると、知り合いがいる環境は息子にとって心強いだろうと思った。
「息子も賛成しているわ。家賃も手頃そうだし、検討する価値はありそうね」と返事をした。
ただ、この決断には夫の同意が必要だった。最近の夫婦関係を考えると、この話をするのが少し怖かった。でも、息子の将来のためには避けて通れない。
「夫は何て言ってる?」となかっ聞かれて、咄嗟に「賛成してるわ」と答えてしまった。嘘をつくのは好きではなかったが、この状況では仕方なかった。
友人との会話が終わった後、夫に連絡を取る決心をした。最近の出来事で関係が冷え切っていたが、息子のためには乗り越えなければならない壁だった。
財政的な面で夫に頼らざるを得ない現状が、私を躊躇させていた。過去の経験から、夫の反応を恐れる気持ちもありました。しかし、息子の未来のためには、この恐怖を克服しなければならない。
深呼吸をして、私は夫にメールを送った。これが新たな家族の形を模索する第一歩になることを願いながら。
部屋探し(その3)
「悠人の大学の部屋探しの件ですが、良い物件が見つかりました。1DK〇万円です。家具家電付きです。格安物件です。仮押さえできるので今のうちにしたいと思います。お返事ください。よろしくお願いします。 美咲」
しかし、返事は来なかった。
裁判所で、進学について私と連絡を取り合うと約束したのに。
やっぱりか。
あの人はこういう人。
大村くんのところは既に仮押さえしたという。
めったにない、安くていい物件で、尚且つ同じ高校から行く友達が入るであろうアパート。
おそらく、このまま黙って待っていたら夫から返事は来ることはないだろう。
私は夫の携帯に電話をした。
出ない。
忙しいのか。
設計事務所に電話をした。
社員が出た。
「お久しぶり、美咲です。みんな元気かな?所長に代ってもらいたいんだけど」
社員の手前出ないわけにはいかなかったのだろう、不機嫌な声で夫が出た。
「…なんだ?」
やはり怖い。
自分から電話したくせに。
「メール読んだよね。書いたとおりだから。勝手にことを進めちゃいけないと思ってメールしました」
「お前さ、なに勝手なこと言ってんだよ。だれが金を出すと思ってるんだ?」
「だからこうやってちゃんと相談してるじゃない。とても条件が良いんだよ。それで他より安いんだから、あなたにとってもいいですよね?疑うならネットで調べてみて、そしたらあそこが良いってことがわかりますから」
「金を払うのは俺だ。だから決めるのも俺だ。お前や悠人じゃない」
「調べて早く決めてください。遅くなって結局高いアパートに入ることになったら、あなたも嫌ですよね」
「うるさい」
そう言って電話は切れた。
本当はもう一度かけて、話の続きをしたいところだが、仕事中に電話したのだからゆっくり話せないのはわかる。
私は、夫からの電話を待つことにした。
その夜悠人が言った。
「お母さん、大村ね、あのアパートの2階に仮押さえしてもらったんだって。うちはいつする?できたら俺も2階がいいな」
「うん…今ね。お父さんにもネットであの物件見てもらってるから。お父さんのOK出たらすぐにする」
「お父さんか…」
お父さんのOK…そう聞いた途端に悠人の顔が曇る。
そうだよね。
そんなこと聞いたら不安になるよね。
せっかく新生活に思いを馳せる楽しい時期なのにね…ごめん。
「悠人、絶対大丈夫だからだからあなたはなにも心配しないで受験勉強だけ頑張りなさい!明日にはお父さんからOK出るから」
私はとんだ嘘つき女に成り下がった。
でも…あなたならこの時、悠人にどう言った?
本当のことを全部話した?
考えは人それぞれ。
大事なものの優先順位も人それぞれ。
私には子供以上に大事なものはない。
苦しめないためならば嘘もつく。
私はそういう人間だ。
後悔はないと言ったら嘘になる。
でも今はこの方法しか私にはない。
夜中まで夫の電話を待ったが、やはりかかってくることはなかった。
夫にはもう、普通のやり方は通用しなくなったのか。
部屋探し(その4)
私は夫に電話をかけた。夫は電話口に出て、怒鳴りだした。
「お前何度もうるさいんだよ。こっちは仕事中なんだよ」
私は冷静に話した。
「あなたね、そんな怒鳴ったって私は引きませんよ。これは悠人にとって大事なことなんですからね。急に話を振ったのは悪かったけど。悠人と私が知ったのも最近で、それは仕方がないじゃない」
夫はさらに怒鳴った。
「黙れ!」
私は諦めずに続けた。
「昔のように、怒鳴れば黙ると思わないでね。大事な子供のためなら、何度だって電話するからね。冷静に考えなさいよ。悠人は東京の大学に行く以上どっかのアパートには、住まなくちゃいけないんだよ?だったら安くて、条件のいいところにするのがお互いのためなんじゃないですか?少しでも、悠人にお金出すの少なくしたいんですよね?あなたは」
夫はさらに激怒した。
「お前、俺に指図するのか?頭にくる!俺はお前に殺意を感じるよ。お前らが住む家ごと全部燃やしてやりたいよ」
私は夫の言葉にショックを受けたが、諦めずに続けた。
「今から行きます」
夫は驚いた。
「はぁ?どこにだ?お前ふざけんなよ」
私は冷静に答えた。
「沙織の家に今から行きます。あなたも来てください。そこで沙織と沙織の家族も交えて話し合いましょう」
夫は困惑した。
「何言ってんだお前」
私はさらに続けた。
「沙織の母親が言ってました。なんで俊太郎に、子供達を会わせないんだって。あなたは会いたがっているのに、私が会わせないってことになってるね。他にもあるんじゃないですか?沙織や沙織の家族に嘘ついていること」
夫は言葉に詰まった。
私はさらに続けた。
「他にも、沙織たちに調子のいい嘘ついてるんじゃないですか?この際だから、沙織の前で話し合いましょうよ。あなたの給料沙織に家に入れてるんでしょ。だったら悠人の進学費用のことだって沙織たちも無関係ではないから」
夫は怒鳴った。
「そんなこと、お前なんかにできるわけない」
私は冷静に答えた。
「は?前にも行ってるでしょ?私は行けますよ。それされて、一番困るのはあなたですよね。
それじゃ、今すぐ家を出て、沙織の家で待ってますから。あなた沙織の家に住民票移してますよね。あそこがあなたの家なんだから、話し合いに行くならあそこでおかしくないですよね?今から行きます。そこで話し合いましょう。沙織たちにも全部聞いてもらいましょう。本当のことをね」
夫は慌てた。
「ちょっと!ちょっと待て!」
私は冷静に答えた。
「沙織に逃げろって電話しても無駄ですよ。今日がダメなら明日、また明日。車に泊まり込んであなたと沙織に会えるまで、私は動きませんからね。覚悟しなさい。
今までのことも全部含めて、三人で話し合いましょう。沙織さんもあなたから聞いていたことと違う話がいっぱい出て来て驚きますよね、きっと。じゃあ、後で」
夫は怒鳴った。
「わかったよ!うるさいな!そのアパートでいいよ!そのアパートに住まわせてやるよ!」
電話が切れた私は、安心してため息をついた。
掛け違えのボタン
夫は大学時代から友人が少なく、就職後はさらに疎遠になった。彼は社員たちとも仕事の付き合いだけで仲良くすることができず、唯一の遊びのゴルフも義父の友人と行くだけだった。私は子供たちのクラスの役員をしたり、学校行事や町内行事に参加したりして、普通に生活していたが、夫は人付き合いの苦手な性格で、家族で囲む食卓でも疎外感を感じていた。
私は夫に「たまには学校の行事に参加してみると意外と楽しいよ」と勧めたが、夫は一度も参加しかった。私は夫が寂しかったのではないかと今になって思うが、夫は全然平気だったのかもしれない。
夫が所長になってすぐの事務所の懇親会のとき、夫は一人で手酌でお酒を飲んでいた。私は木村に耳打ちして、夫の相手してくれないかと頼んだ。木村は夫の隣へ移動したが、夫のそばには誰も寄りつかず、木村と二人だけだった。
夫は社員たちに嫌われてはいなかったかもしれないが、間違いなく好かれてはいない。そんな現実を目の当たりにした出来事だった。
夫は毎日話をするのは、仲良く出来ない社員たちと義父とそして私だけだった。子供が生れて、私が夫に構う頻度が減り、寂しいなと思ったことは、あながち離婚したいためだけの嘘とも言い切れないのかな。
夫は離婚したい理由を「子供が生れて、俺はお前の一番ではなくなった」と言った。もちろん沙織と一緒になりたいのは事実で、そのための口実であるのもわかってはいるが、あながちその理由も、全くの嘘でないのではないのか。
私は夫の気持ちを想像できなかったかと今になってふと思ったりする。甘いだろうか。もっとも、今さら考えても遅いのだが。
夫が私たち親子にここまでやってきたこと、これからることはやはり到底許されるものではないのだが。
私たち家族はどこかでふと掛け違えたボタンがあったのかもしれない。もしの掛け違えがなかったら、今頃私たち家族はどんなふうになっていたかな。きっとどこにでもある家族で、どこにでもいる親子で、どこにでもいる夫婦で。ちっちゃなことで笑ったり、ちっちゃなことで喧嘩したり、ちっちゃなしわせを積み重ね平凡に平穏に暮らしていたのだろうか。
当時は家事に会社に子育てに、私自身忙しくてそんな夫の気持ちを想像もしかったのは事実で。もっともっと、ちゃんと向き合って。もっともっと、ちゃんと愛してあげれば良かったと、何年も何年も経った今思うのだ。
夫の孤独感は、家族の中で深まっていった。私は夫の気持ちを理解することができなかった。夫は私たち親子に愛情を注ぐことができなかった。私たちは夫の孤独感を埋めることができなかった。
夫の離婚の理由は、子供が生れてから私が夫に構う頻度が減ったことだった。夫は私たち親子に愛情を注ぐことができなかった。私は夫の孤独感を埋めることができなかった。
夫が行く(その1)
大学受験の日が迫っています。私たちは受験日のホテルを予約しましたが、大学周辺のホテルは取れなくて、電車で移動する必要があります。田舎者の私たちにとって、東京の電車は慣れていないので、前日下見が必要です。
そのとき、夫の弁護士から電話がかかりました。調停は終わっているはずなのに、弁護士を使って伝言を送るのはおかしいと思いました。
「旦那さんはご長男の進学費用を出す以上、全部自分が決めたいとおっしゃっています」と弁護士は言いました。私たちは夫が決めたところしか認めないと言われましたが、そんなことはありません。私たちは悠人に贅沢な学生生活を送らせたいなんて思っていません。学生として身の丈に合った、慎ましく且つ健全な生活を準備したいだけです。
夫は私たちがずるをして、夫に必要以上にたくさんのお金を使わせようとしていると思っているようです。しかし、私たちはそんなことをするはずありません。私たちは夫の嘘に騙されないように気をつけます。
弁護士は「旦那さんは自分の目で見て自分が決めたものしか認めないと言っているんです」と言いました。
私たちは学生に見合った1ルームで、なるべく安価な物件を探したのに、夫は自分で決めたいと言っています。
私は夫の弁護士に「具体的にアパートを自分が決めたいって、夫はどうするつもりなんでしょう」と尋ねました。
弁護士は「アパート探しはどんなふうになさったんですか?」と尋ねてきました。
私は「ネットで良さそうな物件を探しました。さっき言ったように、もう仮押さえもしました。もちろん夫の許可は取っています」と答えました。
弁護士は「旦那さんが行くそうです」と言いました。
私は「なぜですか?」と尋ねました。
弁護士は「奥さんたちがなにか、旦那さんに不利なことを勝手に決めてくるといけないからとおっしゃっていました」と答えました。
私は「なるべく安いところを探してましたから、そんな心配はいりませんよ」と言いました。
弁護士は「しかしね、お金を出す旦那さんがそうおっしゃってますのでね」と答えました。
私は夫の行動に困惑しています。突然何を言い出すかわからない夫が付いて行くのは悠人にとって悪影響になるだろう。
私は夫の弁護士に「ちょっと、私も佐藤弁護士に相談してみます」と言いました。
私は佐藤弁護士に電話をして、この件について相談しました。弁護士は「旦那さんの行動は不当だと思います。私が対応します」と答えました。私は安心しました。
さんの気持ちを考慮する必要があります」と言った。
美咲は「
夫が行く(その2)
佐藤弁護士は「旦那さんは悠人さんの受験に付いていきたいと言っているようですが、悠人悠人は父親と半年以上会っていないので、受験の日に突然会うのは無理です」と答えた。
佐藤弁護士は「旦那さんは悠人との仲を回復したいと思っているのではないでしょうか」と尋ねた。
美咲は「そんなことはないと思います。悠人はいつでも連絡できる状態だったので、夫が関係を回復したいなら悠人に直接話すべきです」と答えた。
佐藤弁護士は「旦那さんにへそを曲げられたら面倒ですよね」と言った。
美咲は「確かに主人ならやりかねない」と答えた。
美咲は「夫が悠人に不倫のことや離婚話を話してしまって受験が台無しなんてことになったらどうしたらいいでしょうか」と心配した。
佐藤弁護士は「ほんとにそれは避けたいですね」と答えた。
佐藤弁護士は「こちらからも交換条件を出すんです。悠人さんの受験に付いていくのは認めるとして、悠人さんに対して離婚を望んでいること、不倫していること、不倫相手の家にすでに住んでいること、そのような話は一切しないことという条件です」と提案した。
美咲は「夫に行かせるんですか…」と尋ねた。佐藤
弁護士は「本当は美咲さんが一緒に付いていくのが最善と私も思います。だけど旦那さんの申し出を断って、やっぱり進学費用は出さないとかおかしげなことを言ってこられたら困りますよね」と答えた。
美咲は「わかりました…悠人に話してみます。でもちょっとでも嫌がるようでしたらやめます」と答えた。
佐藤弁護士は「そうですね」と答えた。
美咲は、夫婦のことで心に負担を掛けてしまっている子供たちのことを考えて、最善の策を考えようとした。しかし、受験までもう6日しかなく、悩んでいる暇はなかった。美咲は弁護士を信じてやってみることにした。
夫が行く(その3)
その夜、私は悠人を寝室に呼び、受験の準備について話した。
悠人は笑顔で「着替えやなんかももうトランクに詰めた」と答えた。
私は「悠人はいつも自分できちんとできるからすごいね」と褒めた。
すると悠人は「ねえ、お母さんなんなの?なにかあるから呼んだんでしょ?」と尋ねた。
私は「受験の東京行きのことなんだけど」と切り出し、「アパートの内見も一緒に済ませたいからお母さんも一緒に行くことになってたでしょ」と続けた。
悠人は驚き顔で「うん。それがどうしたの?」と尋ねた。
私は「アレね…お父さんじゃいやだよね?」と尋ねると、悠人は驚いた表情をした。
私は「お父さんからね…一緒に行きたいって連絡が来たんだ」と話した。
悠人は「電話来たの?お父さんから?」と尋ね、さらに「それにしても急にどうしたんだろうね。もうずっと俺らのことほったらかしだったのにね」と続けた。
私は「アパートもどんなところかお父さんが見て決めたいんだって。なんやかんや言っても悠人のことが心配なんじゃないかな」と話したが、悠人は「そっか…」とだけ答えた。
悠人は優しい子で、私が困っているのを察していた。私は「わかった。いいよ。お父さんでも。いいって言わないと、お父さんへそ曲げて進学のお金出さないぞとか言いそうだしね」と話したが、悠人は「…お父さんに付いていってもらうよ」と答えた。
私は夫と一緒に行きたいわけがないと思ったが、悠人は気を使って言ってくれたのだろう。
私は「そっか。ごめんね。こんな土壇場で。お父さんも突然言ってくるもんだからお母さんもびっくりして」と謝罪した。
私は悠人の優しさに助けられたが、夫がなにも言わず付き添いをすることができるのだろうかと心配した。
私は早速佐藤弁護士に電話し、顛末を報告した。
弁護士は「わかりました。先方の弁護士にしっかりと文書を出します。この旅ではご長男さんに一切の離婚の話をしないようにときつく書きますから大丈夫です」と答えた。
夫からの返事
夫はなぜ、受験6日前になって突然アパートの契約を自分が内見しないと認めないと言ってきたのか、私は不思議に思っていた。夫は子供のことに関しては、昔から興味がない人だ。だから、悠人のことが心配だから内見も受験の付添いも自分がしたいなんて言う人ではない。
佐藤弁護士から先方弁護士へ、長男と共に東京に行くに当っての条件を提示した。夫は私と離婚を望んでいることを言わない、不倫していることを言わない、不倫相手の家に同居していることを言わないという条件だった。この条件は、長男を動揺させることなく受験させるために必須だった。
その2日後、受験二日前のことだった。弁護士を通して夫から返事が来た。夫は条件を呑むが、その代わりとして交通費、ホテルへの宿泊費、食事代、その他雑費は二人分私が負担することという条件を出した。
私は夫の小ささに呆れた。自分から一緒に行かせろと言っておいて、受験のときにせめてなにか美味しいものでも奢ってやろう的な気持ちさえないんだなと思った。
私は夫の考えとは到底思えなかった。夫は昔から子供に全く興味がなく、お金に関しても同じだった。私にちょっと嫌がらせをしたいということだけでわざわざ東京まで付いて行くなんてめんどくさいこと夫は絶対にしない。
食事代や飛行機代がどうとか、お金についてこまいことは面倒だから言わないはずだった。
私は誰の考えなのかと疑問に思った。証拠はないが、今回のこの一連の夫の言動を見ていると、どうしてもその後ろで夫を操っている女の存在を感じずにはいられないのだ。赤の他人の息子の受験問題にさえ、口を出してくる不倫女。許せないと思った。